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トッシー先生のユルツェン『ルル』鑑賞ツアー同行記 (その8)


  いよいよ旅も終わりになる。人生の中で旅人となっている時間は現実でありながら現実と遊離しているものだ。特に外国旅行はその感じが強い。そしてその後の人生でその思い出が大きく膨らむ場合が多い。今度の旅はどんなことになるか楽しみだ。


オペラ『ルル』鑑賞の旅(2014年11月7日~11月14日)


帰国(羽田)編


その8 帰国

13:05 羽田空港着

  羽田着

ジャンボ機の巨大さを見てこんなものが空を飛ぶのが不思議だね〜 日本は海の上に浮いていた。着いたよ!!!

 おつかれさん!無事に戻って良かったね。管理人もずいぶん心配してくれていたようだ。この同行記を読んでくれた人にも「お疲れさま」と言わなきゃね。

 ところで日本語は面白い。「疲れ」、「苦労」に「お」や「ご」をつけて後ろに「様」を持ってきて、なお且つ最後に「〜でした」「〜でございました」などと言う。なぜ疲れ、苦労をそんなに丁寧に扱うのか?これには深いわけがある。・・・とか何とか、例のうんちく癖が始まりそうなのでやめておく。それよりもわたしゃ留守中、庭の柿がカラスにつつかれていないかって心配でね。
 それじゃ、みなさん、おつかれさん、ごくろうさん。


トッシー先生の8日目のエピローグ:

「終わりましたよ」って言いたいんだけど同行記で尻切れトンボの箇所がある。これを読んでくれた人からフランクフルト空港の事件のことを詳しく知りたいなんていう人もいる。思わせぶりな書き方で心配させたけど、今考えればたいしたことではない。はぐれた人とすれ違いになり結局は再会してハッピーエンドに終わったんだから。
 それよりも『ルル』批評の続きが残っている。
 
以下はウーテ・ランゲ=ブラッハマンさんの反論だ。


編集者よりの注解:バーバラ・カイザーさんの寄稿は一度変更されました。バーバラ・カイザーさんの批評のいろいろな箇所に反証を試みるべくランゲ=ブラッハマンさんがその機会を得ました。

質問:ランゲ=ブラッハマンさん、あなたはクーラウのオペラ『ルル』のバーバラ・カイザーさんの批評をお読みになりましたね。このオペラはホコリを払わなければならなかったのですか?

答え:私は15年のあいだオーケストラ、音楽大学、ニーダーザクセン劇場などにこの話をしており、すばらしいCD録音もリリースされていることから、決してホコリを払ったわけではありません。楽譜も出版されています。ですから指揮をしようと思えばだれでもできるのです(ザイツァー氏もこれを持っています)。この事実からこのオペラが注目されていないものと考えることはできません。単に長い間忘れられていたに過ぎません。しかもそのことがこのオペラの価値を否定することにはなりません。今日演奏されているオペラが全て『ルル』以上に音楽的なものばかりではありません。フリードリヒ・クーラウの多くの作品やオペラ『妖精の丘』が今日も演奏されているのです。東京では来年『盗賊の城』が上演されるとのことです。(訳注:ランゲ=ブラッハマンさんの誤解、『盗賊の城』ではなくて『妖精の丘』)

質問:あなたは批評の中で同じ原典による『魔笛』と『ルル』の比較をどう思われましたか?

答え:まずは両者を比較しなければならないことでしょう。何故なら両方ともお伽噺「ルルまたは魔法の笛」の原典 を同じくしているからです。モーツァルトの作詞家、シカネーダーはこの原典にいくつかの他の物語を加え、さらにはフリーメーソンの思想を持ち込みました。『魔笛』がオペラの世界で最高の作品の1つであり、そうではないがゆえに『ルル』を演奏すると理解して劇場に来たお客様はいないでしょう。---カイザーさんの批評でもこの作品の彼女の判断が参考資料の欠如を明確に現していますが、このような両方のオペラの比較は極めて軽薄な考えのもとに行われたものです。ロッシーニやモーツァルトを思い出させることを挙げることに満足しないばかりでなく、極めて想像力を働かせたことは疑いもありません。どんな作曲家も先人の影響を受けない人はいないでしょう。例えばモーツァルトはハイドンの影響が見られます。だれがこれを非難することができるでしょうか。
正しい音楽学的な評価が充分ではないばかりではなく、『ルル』の立場を、例えばカール・マリア・フォン・ウェーバーに見られるような和声の斬新性における初期段階のドイツロマン派オペラと位置づけています。
参考可能性の欠如は大勢の音楽学者、音楽教授、音楽監督による真剣な論議によって補われるものとなるでしょう。

質問:なぜこのオペラは正式なオペラとして上演されなかったのでしょうか?

答え:カイザーさんが言うように「おかしなもの」となるからでなく、単にニーダザクセン劇場の経費的な問題です。もしも、全ての関係者が(150人!)暗譜し(正式なオペラ上演では覚え込まなければならない)、衣装を着け、大道具を備えなければならなかったとしたら莫大な費用がかかるのです。このオペラは次のシーズンで行われる『魔笛』の副プロジェクトのように考えられ同時に行えば簡単になるということだったのです。『魔笛』と同時進行なら『魔笛』はみんなが知っている作品でもあるし喜んでリピーターとして来てくれるけれど、『ルル』は誰も知らない作品だから採算が取れるか不確かであるというのが単純な理由でした。---カイザーさんが歌詞の明確性を云々していますが、これはお笑いです。どんなオペラでも歌詞が聴き取れるものはありません。だから大きな電光掲示板が用いられるのです。私はちょうど2日前にベルリンで“Weltniveau”を観てきました。始まる前に歌詞を全て読みましたが、聴き取ることが出来たのは片言でした。オペラによく行く人には分かることです。

質問:あなたはこのオペラに関わったことに報われましたか?この結果について満足のいくものでしたか?

答え:はい。思っていた以上に満足しました。今や個人的な感情を離れて、ご来場いただいた一般の人々の反応(400人ではなく500人です)、聴衆が単に「友好的」というのでなく、絶賛をしてくれたこと、沢山の方々から感謝されおめでとうと言われたことをお知らせしたいと思います。私は15年間文化省でいろいろな分野を受け持ちましたが、このような反応を受けたことは初めてのことでした。
鉄道のストライキにも関わらずドイツ全土、外国からそして日本からも興味を持って来て下さったことを喜びとするものです。それらの方々の皆さんはこの公演を賞賛し遠くから来た甲斐あったと述べています。ある人は「今日の演奏会は音楽史上のセンセーションだ」と言っていました。
この場を借りてヴェルナー・ザイツァーさんに『ルル』プロジェクトを決して手放さなかったことに感謝を述べさせていただきます。


トッシー先生の8日目のエピローグの続き:
 ここにも我々が登場しているので、ちょっとこそばゆいが日本から『ルル』を観にきたということはユルツェンの人たちにとっても喜ばれたということが分かり嬉しいことだ。


以下はここの管理人が書いたものだ。まるでその場にいたような書きっぷりだね。

クーラウ作曲・オペラ『ルル』in Uelzenを観て
終わったときの感想は・・・
 隣に座っていたドンボア教授から「どうだった?」と聞かれたときに「あまりにもきれい過ぎる」「zu rein」と答えていた。この「rein」には、純粋な、澄んだ、透明な、きれいな、清潔な、きちんとしたという意味がある。その前に反意語としてzu「あまりにも」を付けたのはネガティヴな気持ちを表したものだ。「過ぎたるは及ばざるが如し」のようなものだ。ドンボア教授はその意味を察したのだろう。「どうして?」と聞いた。ネガティヴにとらえれば「感情の高揚がない」、「あっさりしている」などとも解釈できる。私はすぐさま自分の感想をドイツ語で答えることが難しかったので簡単に「情熱が感じられなかった」と答えた。これはあくまでも演出にについての感想だ。
 『ルル』の物語は単純と言えば単純だ。悪者に誘拐された王女シディを王子ルルが魔法の笛と魔法の指輪で助け出す勧善懲悪の物語である。いわば黒と白しかない。しかし、その中には普遍的なエモーションがある。恐れ、あこがれ、失望、希望、苦しみ、驚き、歓喜などである。そして、このオペラで重要な役割をしているのはフルートだ。フルートの音(音楽の力)が人の心を動かすということがこのオペラの重要なテーマになっている。原作には悪者、魔法使いディルフェングの砦の前でルルがフルートを吹くシーンがある。この時に森の動物が笛の音につられて集まって耳を澄ますのだ。ディルフェングもこの音を聴いて魂を揺さぶられルルを砦に導き入れる。しかし、この場面もカットされた。演奏会形式ならナレーターの説明がなければ字幕で補うことが必要だ。オペラであればナンバー(曲)の間に対話が行われる。しかし、これらは殆どカットされた。
 この演奏会形式は本物のオペラからカットした部分が沢山ある。プログラムには全てを演奏すると5時間かかると書かれていた。しかし、全曲演奏してもそれほどの時間はかからない。恐らく当時の長い休憩時間を入れた算出値だ。今回は1度の休憩が入り2時間半の上演だ。カットをしなければもう少し長くなる。果たしてこの曲の並べ方、提示の仕方に問題はなかったかと言うのが私の疑問だ。
 終わった後のレセプションで指揮者ヴェルナー・ザイツァーさんと話した。このオペラの本式のオペラでの上演の可能性を伺った。彼は『魔笛』とのシナリオの比較で話をした。『ルル』は単純で『魔笛』は複雑であり役柄も増えている。フリーメーソンの話が加味されているから物語に膨らみがある。それに反して『ルル』は単純だ。そのため『ルル』が現在のオペラ劇場のレパートリーに受け入れられる事の難しいことを・・・
 たしかにシカネーダーの『魔笛』には原作にないパパゲーノがいる。この役を持ち込んだことで『魔笛』は成功した。ただし、フリーメーソンの思想を取り入れたことで訳の分からないものとなったと私は思う。
 一方『ルル』には原作にないヴェラが新しく充当された。一番興味深い役柄はバルカだ。生まれつき小人で底知れぬ陰険さを持っている。父親ディルフェングの家来として家僕のように扱われてシディの見張りをさせられている。シディをいじめるが、その実彼女に思いを寄せている。こんなことはオペラで演じられて始めて理解できることで、演奏会形式でアリアだけを歌っても現すことは出来ない。
 演奏上の問題もある。歌手が役になりきることの希薄さが寒々しさを感じさせた。語りをしたのは第一幕と第三幕のペリフェリーメだ。ペリフェリーメは妖精の女王である。威厳が必要だ。しかし残念ながらこの俳優にはこの威厳が欠けていた。学芸会を見ているようだった。眠っているディルフェングの懐にあるバラを取り戻すルルとシディのメロドラマには不安、恐れの緊迫感が必要である。しかし、残念ながらこれもない。
 確かに歌手は歌っている。しかし感情移入の希薄さが観客に訴える力が弱かったのではないかと思われる。
 批評には歌手のことが出ている。この歌手の中で一番歌唱力があったのはヴェラである。しかし、誰一人として彼女についての言及はない。合唱はすぐれていた。ゲネプロで聴いた少女合唱団の声の荒さは本番では目立たなかった。
 オペラを演奏会形式で行う場合の難しさは非常に大きい。オペラの場合、背景、大道具、小道具、衣装などによって瞬間的に場の雰囲気が認識されるが、演奏会形式ではその説明が必要だ。プログラムにあらすじを書いても直接的には伝わらない。聴衆の想像力に頼る要素が大きい。
 『ルル』の音楽には魅力的なアリアや旋律が沢山ある。オーケストレーションも優れている。にもかかわらずこれらが充分発揮されていなかったのはドラマと相まっていなかった事に原因がある。
 この公演はユルツェン市文化省のウーテ・ランゲ=ブラッハマンさんが15年の歳月をかけて実現されたものである。知られていないオペラを上演するという難しさは私は十分理解できる。この上演にかけたウーテさんの苦労も思い入れも大きかったことだろう。出来れば本式のオペラでしたかったであろうが、それを阻むものは経費の問題だった。しかし、この上演を遂行した意義は大きい。心からの拍手を送りたい。
 演奏会形式と本式のオペラの両者を同じまな板に載せて云々することは片手落ちだが、「9勝1敗で日本の勝ち」という本の題名を思い出してしまったのは言い過ぎかも知れないが偽らざる感想だ。クーラウの『ルル』の世界を充分に現していなかったのは残念だ。いつの日かドイツで本式のオペラ『ルル』を聴きたいと願わずにはいられない。


トッシー先生の8日目のエピローグの続きの続き:
「批評」いうものは怖いものだ。神ならぬ人間には物事を判断するには限界がある。批評家はそれをわきまえて発言しなければならない。クーラウの音楽に対する評価も同じ事だ。
 話はちょっと逸れるが、タバコのみのわたしゃ、最近の世論はちょっと行き過ぎじゃないかと思っている。・・・たばこは健康を害する。だからタバコを否定することは世の中のためである。したがって病院は勿論のこと、職場、学校、レストラン、公共の場からどんどん追いやられている。みんなが悪いものだと言っているからタバコのみを迫害することは当然であり正義である・・という考えだ。そして路上の一画や建物の隅に狭い箱を作ってその中で吸うことを強要する。 しかし、排気ガスを振りまいて走っている車には文句をつけない。車こそ枯渇することが分かっている資源を使って、地球の環境を破壊している元凶だ。車の走る道路に覆いを付けなきゃいけない。これを見逃していて、たばこを目の敵にするというのが今の世論だ。世論から外れなければ安泰だという考えが蔓延している。


 寄らば大樹の陰・・という言葉がある。権威にすがっていれば身の危険は少ないという人生訓だ。大作曲家と呼ばれる人たちはいわゆる大樹、弱小作曲家は小樹だ。クーラウはその内の小樹に含まれているんじゃないかね。コペンハーゲンにはクーラウの肖像はない。デンマークの音楽界に重要な足跡を残しているにも関わらずだ。青年時代を送ったハンブルクにもない。あるのはブラームス博物館、メンデルスゾーンの記念碑だ。メンデルスゾーンは生まれてから2歳までしかハンブルクにいない。有名人にはかなわない。
 そこでだ。批評家の多くはこの大樹に寄りかかり物事を判断する。いわば既成概念というやつだ。言ってみれば世論だね。だからクーラウの『ルル』を批評するのにモーツァルトの『魔笛』を持ち出す。バーバラ・カイザー女史の批評は正にそのようなものだ。【今や同じテーマのモーツァルトの天才的な作品『魔笛』があるのにも関わらずクーラウのオペラ『ルル』を取り上げる必要があるのだろうか?】という発言は恐れ入る。その他にも『ルル』序曲を批評するのにオルセン 窃盗団の映画を持ち出している。あれは映画に合わせて『妖精の丘』序曲を編曲して使っているものだ。『ルル』序曲が「金槌の音と静寂」としてしか聞こえない耳とはなんと悲しいことことだろう。
 良いものは良い、悪いものは悪いとはっきりいうためには、まず深く知らなければならない。クーラウさんの事を深く知る人が増えるといいね。クーラウ協会もがんばってくださいよ。

 そうそう、今度のユルツェンツアーに参加した人たちの感想文がある。いろんな角度からものを見るというのは面白いね。写真も付けている人もあるよ。ここをクリックすればそのページに飛ぶよ。<クリック> 


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