ゴルム・ブスク著 「クーラウの生涯と劇場作品の分析」より

石原利矩訳

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クーラウ伝記

ドイツ 1786年〜1810年

ユルツェン ー リューネブルク

 フリードリヒ・ダニエル・ルドルフ・クーラウ(注2) は1786年9月11日、ハンブルクとハノーヴァーの丁度真ん中あるニーダーザクセン州の小さな町ユルツェンで生まれた。彼は二日後にその町の聖マリア教会で洗礼を受けている(注3)。 クーラウの家系も当時沢山あった音楽家の家系の1つであった。父親、ヨハン・カールはハノーヴァーのいくつかの連隊(注4) の軍楽隊員(オーボエ奏者)であったし、同様に祖父、ヨハン・ダニエル はライプツィッヒで「プリンツ・ゴーティッシェ連隊」のオーボエ奏者で後にヴィッテンベルクのそばのニーメックで町の音楽家になった(注5)。叔父、ヨハン・ダニエルはシュターデのオーボエ奏者で後にオールボーに移り、1784年デンマークの市民権を得てヴォーフルーとブドルフィ両教会のオルガニストとなり、1791から同時に町の音楽家となった。彼は3回結婚をしている(注6)。 2番目の結婚で生まれた息子、セーアン・ケルルフ・クーラウ は宮廷楽団のチェリストである。(注7)
 クーラウの父親、ヨハン・カールは1770年、ハノーヴァー生まれのドロテア・シャルロッテ・ゼーガースと結婚した。11人の子供(注8) が生まれたがその内二人の娘と三人の息子が生き残った。クーラウは9番目の子供で息子の中では一番年下であった。一家は最初シュターデに住んでいて、そこで上の5人が生まれた後ユルツェンに移った。父親は音楽(多分フルート)を教えて生活する平凡で学歴の無い男であった。一方、母親は有能な婦人でフリードリヒは彼女の生きている間、並々ならぬ心服を寄せていた。彼女は彼に常に影響を与え続けた人であった(注9)。
 1793年頃、クーラウが7才頃の時に家族はリューネブルクに移った。ここで1796年の始め、彼が9才半の時に右目を失う事故に見舞われた。言い伝えによればそれは次のようなものだった。彼は通りで転び持っていたビンが割れその破片が目に突き刺さったのである。このことが彼の人生に決定的な影響を及ぼしたことになる。長い療養中にベッドの上に鍵盤楽器を据え、それが音楽への興味を引き立てたのか、またはすでに目覚めていた(音楽に対する)興味をより早く促進させたかである。5〜6月の姉、アマリエ宛の手紙に大分良くなったがまだ痛みが残っていること、その後の手紙ではいくつかの美しいアリアを書いて彼女に送るつもりだと書いている。これは彼が比較的長い間音楽にたずさわっていたことを意味している。この不幸な出来事の以下の記述も同様なことを裏付けている。「クーラウは他の少年と一緒に教会のオルガンのそばで歌っていた。彼の立つ場所はいつもオルガニストのそばであった。彼はオルガニストの『お気に入り』だった。ある日オルガニストが賛美歌集を忘れてきたのに気がついた。クーラウはそれを取りに走って行った。道路は凍っていて滑りやすくなっていた。彼は転んで目を打った。にもかかわらず彼は賛美歌の本を届けた」というものである。「それは大変な不幸でしたね」と彼に言うと彼自身こう答えた。「いや、それで良かったのです。でなければ私は音楽家になっていなかったでしょうから」(注10)。リューネブルクでクーラウはその後、父親からフルートを教わったに違いない。そしてこの楽器のためにいくつかの小品(舞曲や快活なもの)を作曲している。同様に上述のオルガニストから精霊教会でピアノのレッスンを受けた。彼の名前はハルトヴィヒ・アーレンボステルであった(注11)。通常の就学についてはトラーネは「クーラウは兄のアンドレアスと一緒にコルマン学校に通った」と言っているがグラウプナーはそんな名前の学校はリューネブルクに無かったことを明らかにしている。多分コルマンとはプライベートで教わっていた先生の名前だろう。後にアンドレアスへの手紙の中で、このコルマン先生をからかっている(注12)。リューネブルクで系統立った音楽教育を受けたかどうかははっきりと述べられていない。またそんなことは可能な状況ではなかった。その町は芸術面ではますますハンブルクに大きく依存して行った。教会合唱団の制度は衰退の時期であり、結局次のようことになった。1789年と1796年にミヒャエル学校ーヨハネス学校の合唱が廃止され、また1792年ミヒャエル学校のカントールが死ぬと教会音楽は中止された。代わりに市民の楽しみはジングシュピールやオペラなどを演ずる多数の旅回り劇団で満たされた(注13)。
 1796年の夏から4年間のことは全く分かっていない。家計が貧しかったことや父親の転属が多かったためクーラウは確かに早くから家を離れた(注14)。自身の証言によれば彼は子供の頃ライプツッヒに居たということである。それが何年であるか知られていない。彼は言っている。彼が最初に音楽で人の注目を集めたのはライプツィッヒの博覧会だった。父親は家庭に沢山の子供がいることを苦慮していたのでクーラウを音楽家としての道を歩ませるために世の中に出すことにした。彼はライプツッヒに行き、そこで通りで歌っていたある学校の生徒に出会った。彼は皆の仲間に入り彼の歌声は注目され、教師は彼の面倒を見ようということになった(注15)。

アルトナ---ブラウンシュヴァイク 1800年〜1802/3年

 1800年夏、彼は6月28日に入学したアルトナのラテン語学校「クリスティアネウム」の生徒として現れる。以下の記述が学校(?)での音楽活動を示している。「彼が所属した合唱団の仕事のため入学して間もなく授業に出席しなくなった」(注16)。彼がアルトナにいたのは短期間であったことを示す事柄がある。というのはその年、あるいは翌年にプラウンシュヴァイクに行き、程度の高い学校「カタリネウム」の生徒として1802年4月8日に行われた公開試験の最上級の生徒の中に名前が見られるのである(注17)。当時彼は15歳半であった。その学校案内によればテストされる内容はかなり幅広く、ラテン語、ドイツ語、数学、代数、地理、三角法、理科、宗教、道徳などであった。生徒の一部はギリシャ語、ヘブライ語、フランス語、歴史なども勉強していたがクーラウは当然この中に含まれていなかったと見なされている。フランスやイギリスに宛てた彼の手紙を見る限り彼の語学力は立派とは言えない。彼がその学校を最後まで行ったかは全く疑わしい(注18)。
 MGGの中にブラウンシュヴァイクの音楽事情の記事の中に、1800年「カタリネウム」学校の音楽会のことが書かれているが、内容的な質が高いことを意味していない。この世紀の変わり目あたりはこの町の音楽事情は全般的に衰退気味であった。18世紀後半音楽活動は市民によって構成され、特にラテン語学校と大学を結ぶ役割をする「コレギウム・カロリヌム」の生徒たち、および私的な音楽団体によって運営されていた。その中にクーラウも参加したに違いない。以前はハーゲンマルクトにおいて楽長J.G.シュヴァンベルガー(1804年没)のもとで栄えたドイツ語のオペラはここでも又沈滞気味であった。一方、音楽界の発展は1792年からジャン・ティリオの外国音楽協会によって推し進められていた。1793年にモーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』が、1794年に『魔笛』がベルクプラッツの劇場で上演された(注19)。グラウプナーはクーラウがカタリネウム学校の生徒の時、多分わずかなフランス人のみで占められ、その町で活躍していた劇場の合唱隊をマルティノー - カタリネウム合唱団が手伝ったときに加わったと主張している。更に次のように述べている。「この時代のプラウンシュヴァイクの劇場のレパートリーは他のドイツの劇場と殆ど同じようなものであった。出演者もフランス人で占められ、劇場の運営もフランス人によるものであった。演奏曲目はほとんどがイタリアやフランスの作品で、特にケルビーニ、ボワエルデュー、パエールなどが取りあげられた。しかし、モーツァルトやグルックは忘れられてはいなかった。」(注20)。
 クーラウはブラウンシュヴァイクでトロマーという牧師の家に住んで、その家の二人の息子に音楽を教えていた(注21)。彼は2歳年上のルイ・シュポアと知り合っている。---彼はブラウンシュヴァイクで生まれ1797年にカタリネウム学校に行っている。シュポアは1802年〜1803年に演奏旅行を作曲家ゴットロープ・ヴィーデバインと一緒にしている(注22)。デュセックの音楽に対するクーラウの興味はおそらく彼と知り合ったことに由来している。デュセックはブラウンシュヴァイクに1802年の終わりか、あるいは1803年の初めまでいた。デュセックはクーラウよりもずっと年長で多忙で人気のある作曲家であったにもかかわらず1804年にハンブルクに戻ったとき彼と旧交を温めたらしい。ブラウンシュヴァイク時代に作曲活動をしていた最初の証拠がある。それは彼が友人たちに勇気づけられ1802年1月にライプツッヒの出版社ブライトコップフ&ヘルテルにいくつかのアリアを送っていることである(注23)。しかしそれは出版されなかった。

ハンブルク 1802/3年〜1810年

 クーラウがハンブルク(最後にして一番長く滞在した町)にいつやってきて、いつデンマークに旅立ったかをはっきり決定することはできない。その熱心な研究にもかかわらず正確な時期を調べることができずに終わっている。彼がその間にハンブルクに移ったという一年半は空白の時間である。すなわち1802年4月8日のブラウンシュヴァイクの試験の日から1803年の終わり(10月?)までである。というのは後者の時期にクーラウはハンブルクからブレーメンに居る兄アンドレアスに一通の手紙を書いている。その中で彼は彼自身と友人のリヒテンヘルトの見込みのない芸術家の境遇を強い調子で嘆いている。「我々がハンブルクで決して認められないことを考えるとすぐ気落ちしてしまいます。お金をかせぐことは当たり前のことです。お金持ちは我々を恐ろしいくらいに同情します。---私の環境が変わらなければ永久にあわれむべきピアノ教師のままでその先には一歩も進みません。---リヒテンヘルトも同じ立場です。彼はここの劇場でその並々ならぬ才能、素晴らしい声、その他の天分にもかかわらず常に押さえつけられています。---我々二人は演奏旅行をし、ブレーメンで最初の演奏会をするつもりです。---我々は多分11月の終わり頃行くつもりです。」(注24)。
 ところで両親も父親がリンジンク軍隊をやめた後、音楽のレッスンをして生計を立てるためこの時期に同じくハンブルクに居を移した(注25)。
 ブレーメンの演奏旅行のあとハンブルクに帰ってから方向転換をしたように見える。クーラウは1804年3回の演奏会、全てにピアニスト兼作曲家として登場している。3月3日の歌手フリードリヒ・シュレーダーの演奏会では彼の新作オペラの『アモールの勝利』から序曲が演奏され、またヒンメル作曲六重奏(作品18)では彼自身がピアノパートを受け持っている(注26)。3月17日のヴァイオリニスト、ユストゥス・ゲルクの演奏会では彼は自作の「ピアノ変奏曲」を演奏している(注27)。12月15日の歌手リッツェンフェルトの演奏会では「クーラウ氏のシンフォニー」が最初に演奏されている。その後にデュセックのピアノ協奏曲のソリストになっている(注28)。そしてその年以降は演奏活動が活溌になっている。1806年3月15日女性フルーティスト、フレデリカ・ブリンクの演奏会で彼自身のピアノ協奏曲を演奏している(注29)。1808年には3〜4回の演奏会に登場している。それは先ず1月2日リッツェンフェルトの演奏会で「クーラウ氏のシンフォニー」と俳優のコステノーブルと一緒に演じた「ピアノとフルートのための変奏曲」である(注30)。次に3月19日、歌手M.A.ネグリの演奏会で自作の「ピアノのための変奏曲」を弾いている(注31)。4月23日、Ferd. ハルトマンの演奏会では「賛助出演」で音楽監督シュヴェンケのオーボエとクラリネットの2つの協奏曲が挙げられている(注32)。1808年冬、「バウムハウス」における彼自身が主催した愛好家音楽会があるがそのプログラムは知られていない(注33)。クーラウは最後のハンブルクにおいて1810年2回の演奏会に登場している。3月17日、リッツェンフェルトの演奏会では「ハンブルクの繁栄によせて」を主題とする「ピアノのための変奏曲」を(注34)、4月11日、ベティッヒャーとG. A. シュナイダーの演奏会では「ピアノのためのポップリ」を演奏している(注35)。6年の間に9〜10回の演奏会の音楽活動が見られる。その他にもおそらくリヒテンヘルトと一緒にブレーメンに行ったときと同じような演奏旅行をベルリンで行ったものと思われる。そこである伯爵夫人が彼の才能を認めて、彼にある時期尽力をしたと言われている(注36)。更に、おそらく当時普通の一連の私的な演奏会があったであろうが資料は残っていない。
 演奏活動の範囲内でクーラウの育った音楽環境がどんなものだったかはこれらの音楽会で演奏された作曲家や作品を見ることによって分かる。(オペラに関しては第2章参照)協奏曲、序曲、パエールやモーツァルト、チマローザ、リギーニ、A. ロンベルク、G. A. シュナイダー、オイレ、ハイドン(演奏回数の多い順に)などのオペラからアリアや重唱がほとんどであった。しかし、北ドイツの音楽の中心である活溌な商人の町は音楽に満ちあふれて発展していた。そこでクーラウは劇場や音楽会場における当時の重要な作品のほとんどに接し、それを聴いたりあるいは一緒に演奏する機会を持ったにちがいない。その町は大勢の偉大な演奏家、芸術家対の旅のメッカであった。その中には二人のロンベルク:ヴァイオリニストのアンドレアスといとこのチェリスト、ベルンハルト。二人は尊敬され当時よく演奏された作曲家でもある。前者にクーラウは大きく感銘を受けた。そしてアンドレアスの作品の多くはこれらの年に演奏された。中でも彼の最も有名な合唱曲、シラーの詩による「鐘の歌」はハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンの作品の他にクーラウの精神に大きなあとを残し、彼のスタイルを作るのに影響力のあった作品のひとつである。
 クーラウはハンブルクでシュヴェンケに師事している。それはおそらく1806年のことであったろう(注37)。シュヴェンケはC. Ph. E. バッハとキルンベルガーの弟子で、前者の後継者としてハンブルクの町のカントルと音楽監督になっている。彼は作曲家として知られているばかりでなく厳しい評論家(特に一般音楽新聞において)、厳格な理論家、古い音楽に造詣が深い人物であった。クーラウに重要な意味を持った唯一の教師として彼は言い伝えによると、最初は非常に厳しいものですでにいくつかの曲を出版していたにもかかわらず彼の全ての作品にことごとくダメを出した。クーラウは(当時を振り返って)彼のレッスンは「ゲネラルバス(注38)の二、三のレッスン」であっただけ、と述べている。すなわち和声学である。クーラウがシュヴェンケのもとに来たのはすでに20歳頃の時であった。だから全くのところ独習によって(作曲技術を)磨いたと言ってよい。
 1804年6月16日はまだ18歳になっていないこの若い作曲家にとって重要な日となった。ライヘン大通り47番地の本屋フォルマーがハンブルク新聞の「新しい楽譜と書籍」の中に彼の最初の出版作品の広告を載せている。「別れ」クーラウ(kulau!)のピアノ曲、4シリング。囚われ人のロマンス「暗き塔の中に居たとき」によるピアノのための変奏曲、3マルク(注39)。
 これらの作品で作曲家として認められることはまだ難しかったことだろう。次の作品までの間に2年が経っている。(この時期におそらくピアノ協奏曲を作曲していたのであろう。)1806年6月アルトナのルドルフスとハンブルクのハイディエック社から「2本のフルートのためのロンドとワルツ」が、そして「花」(DF146)という歌曲集が同じ編成で出されている(注40)。この時以来しばしばクーラウの名前が広告にほとんどピアノ伴奏の歌曲と関連して現れてくる。その中には1806年8月11日に出版されたシュヴェンケに捧げられた「3曲の歌曲」がある(注41)。(これより4ヶ月前にシュヴェンケの作品の演奏会でクーラウは先に述べた通り予定を組んで参加しているから、このことを考え合わせると彼がシュヴェンケに師事したのが丁度その年であるということになる。)また、ピアノ曲やフルート独奏曲、あるいはまたフルート又はヴァイオリンがアドリブのピアノのためのソナタ、2挺のヴァイオリンと低音(3つのコントラザイラー、3つのワルツ、3つのホプサー、3つのアングレーズ)のための12の当時のいろいろなはやりの舞曲などであろう。1806年だけで全部で7つの作品が出版された。1807年6月ルドルフス社は彼を「すでに以前の曲で賞賛されよく知られている」と広告している(注42)。1809年には彼の作品番号の付いた初めての作品、「3曲のピアノのためのロンド」(作品1〜3)がライプツッヒのホフマイスター社から出版された。1810年9月に大作のピアノソナタ(作品4)の出版をライプツッヒのブライトコップフ&ヘルテル社に申し込んだが、クーラウは「よく知られていない」という理由で断られた。そしてそれはシュヴェンケの推薦によって後、初めて受け入れられた(注43)。そのソナタの作曲料としてクーラウはクラマーとデュセックのピアノソナタ、ベートーヴェンのピアノと室内楽、ヴォルフル、アプト・フォークラー、ヴィーデバインなどの作品、更にポートレートでバッハ(2部!)、クラマー、グルック、フォーグラー、ヘンデル、モーツァルト、ハイドンを要求した(注44)。
 ハンブルクはクーラウが住んでいた時に政治的に不安定な時期を迎えていた。その町は1806年11月19日、ナポレオンの英国に対する大陸封鎖の第一歩としてモルティエ元帥によって占領された。大規模な失業や徐々に増大するフランス人の市の財政の搾取などによる住民にとって厳しい4年間が過ぎたあと、この町は1810年の終わり(正確には12月13日)ブレーメン、リューベック、北ドイツ海岸地方全体と一緒に統合された。クーラウについての記述のほとんどが彼がドイツを離れたのはフランス軍の兵隊として召集されることを恐れたからだと書いている。それはもっともなように思われる。ハンブルクの新聞、特に「ハンブルク・コレスポンデント」紙には1810年の10月から「徴兵の呼びかけ」と題する通知が沢山見られるようになる。それには「1785年から1789年の間に生まれた全ての若者は4週間以内に徴兵リストに登録すること」が要求されている(注45)。12月にはユルツェンなど近辺の徴兵区から提出された名前の書かれた長いリストが見られる。「一部は両親が、一部は本人自身がサインを3ヶ月以内に出生地の市町村にすること」という文面が見られる(注46)。しかし、クーラウの名前はその中に見られない。(殆んどが若い職人たちである)。片方の目が失われているというハンディキャップが理由で徴兵を免れると彼は感じていたのであろうか。彼は「デンマークへの旅行は演奏旅行だ」と定義している。しかし、この時期にそんなことをするのは奇妙であろうし、もしかしたら足下が崩れかかっている場所から逃げ出す単なる弁解かもしれない。

デンマーク 1810年〜1832年

コペンハーゲン-演奏会活動と日常の仕事---ソフィエンホルム及び宮廷で---コペンハーゲンの音楽界---無給の宮廷楽士---「歓喜に寄す」(1811〜13年)

 クーラウは恐らく11月の初めに(注48参照のこと)ハンブルクを発ってシュレスヴィッヒ---ホルシュタイン地方を通って旅行し、その地の宮廷で彼はコペンハーゲンの女王にあてた推薦状を書いてもらった(注47)。ここには確かに1810年の11月の内に来たにちがいない(注48)。1811年1月23日、彼は王立劇場における音楽会において彼のピアノ協奏曲・作品7と1.静かな海、2.嵐の接近、3.嵐の猛威、嵐が遠のき空が明るくなる、5.喜びの漁師たちの歌、6.終曲(その歌の変奏曲)の楽章を持つ当節流のピアノのための音画「海の嵐」で最初にデンマークの聴衆の前にデビューした(注49)。「アドレッセ新聞」は数日後、彼のいくつかのピアノ作品とピアノ伴奏付きの歌曲の広告を出している(注50)。また、更に2月16日、彼の名前を売り込むために音楽アカデミーでもう一つの音楽会を行っている。そこでは彼は再び彼のピアノ協奏曲、ベートーヴェンのピアノ五重奏曲作品16のピアノパート、自身のピアノ変奏曲(詳細は不明)を演奏している(注51)。
 それに対して、王立劇場のピアノ教師としてのポスト志願はうまくいかなかった。クンツェンの推薦にもかかわらず拒絶された(注52)。それは王立劇場の支配人A.W.ハウクに宛てた自信に満ちた自分の方から条件を持ち出した手紙が原因かも知れない。「先ず、第一に年俸300リグス・ターラーというまことに少ない額で満足いたしましょう。しかし、当地でそれで生活することは不可能なことですから、私は一日の内の殆どの時間を個人レッスンにあてなければなりません。ですから、劇場の生徒に対して一日に2時間以上と決めることはできなくなります。しかし、もし閣下が毎日3時間のレッスンをお命じになり私の年俸を600リグスダーラーに増やしてくださるなら副業をやめることに致します。そうなれば私にとっては大変幸せなことであり、一日の大部分を心配なく私の芸術に没頭することができることとなり、これは私が永く望んでいたことであります。」(注53)。
 クーラウは速やかにこの都市の文化人仲間の中に加わった。すでに最初の夏にはソフィエンホルムのコンスタンティンとフレデリッケ・ブルンの家に客として招かれている(注54)。そこで彼はピアノで令嬢のイダの伴奏をしたり、若き日のハイベアに会っている(注55)。クリスチャン・ヴィンターはクーラウがソフィエンホルムの客としてしばしばそこに行ったと言っているが(注56)、ハイベアやその家の雰囲気が彼に合わなかったのかその後訪問した記録は無い。
 11月30日、クーラウは王立劇場で新たに演奏会を行った(注57)。その際、彼は再び彼のハ長調のピアノ協奏曲を、クラブの歌「武器を取れ、敵が攻め来るを見よ」のピアノのための変奏曲、彼の新作のヘ短調のピアノ協奏曲の第1楽章を演奏している。その曲は翌年の春に全曲が演奏された(注58)。この曲はクーラウの生存中にしばしば演奏されたものである。その演奏会の主要な呼び物は彼の「オシアンのコマラ」の名場面でドイツ人のフェルトハイム夫人によって歌われた。その曲はヘ短調のピアノ協奏曲と同様、失われてしまった。
 また彼は宮廷でも注目されるようになった。12月4日「その夜、彼は女王の控えの間で演奏することを要請された。」その演奏に100リグスダーラーが支払われた(注59)。しかし、その他にもデンマークでの最初の何年かは演奏会をするかたわら、歌やピアノのレッスンをしたり(1時間3リグスダーラー)(注60)、その殆どがライプツィッヒのブライトコップフ&ヘルテル社から出版されたピアノ曲、フルート曲、歌曲を作曲したりして生活をしている。この出版社が出しているよく知られた定期刊行物「一般音楽新聞」にクーラウはコペンハーゲンの音楽事情のいくつかの記事や当時好まれていた謎のカノンを寄稿している。彼は要するに出版社とコペンハーゲンを結ぶ連絡係のように思われる。コペンハーゲンの音楽事情について彼は控えめに述べている。彼はあまりよく知らないし、もし口を滑らしたりして敵を作ることを恐れているので声楽曲はひどくたたかれていること、王立楽団は並のものでしかない(二三の卓越した奏者を除いて)と書いている。
 「しかし私はここにこんなに永く逗留したことを決して後悔しないでしょう。何故なら、音楽上の観点から大変素晴らしい人達と知り合いになったからです。例えばその優れたピアノ作品で知られているワイセです。彼は私が今まで聴いた中で一番優れたピアニストです。彼の即興演奏を聴いたことのある人は私が大げさに言っているとは思わないでしょう。彼は今度の冬、ここで王様の誕生日に演奏される大オペラを最近書き上げました。(「ファルーク」という名前で歌詞はエーレンスレイヤー教授のもの)。それは非常に天才的なもので当節のオペラ作曲家になかなかできるものではありません。歌詞は名人的に取り扱われています。彼はドイツでも上演されるようにできるだけ早く翻訳をしてしまうことを考えています。
 クンツエン(音楽教授、宮廷音楽家、ダンネブロー騎士)は品位ある人です。あなたは彼の「天地創造」のハレルヤや、その他の素晴らしい作品をご存じでしょう。ドイツ語に翻訳されていない彼の最上で大規模な作品は残念ながらこちらでしか知られず賞賛されていません。
 グロンラント(法律顧問官)は卓越した理論家です。彼の鋭い鑑識眼ゆえ特に注意を惹く人物です。彼は目の前に置かれた作品の隠された間違いのみならず隠された美しさを見つけ出すことができます。
 シャル(コンサートマスター、ダンネブロー騎士)彼はデンマーク人に非常に好まれるバレエ音楽を作曲しています。
 リース氏は春にはここにいました。彼は公の場ではなく宮廷で演奏しただけでした(彼は現在ペテルスブルクにいます)。彼は私の前でしばしば即興で演奏しましたが私にはそんなに気に入りませんでした。ワイセに比ぶべきもありません。
 ---前の冬は私以外に外国からやってきた作曲家はいません。私はここで3回の利益を上げた公開演奏会をし、宮廷で2回演奏しました。
 歌劇場の歌手たちによる慈善演奏会、クラブや愛好家たちの演奏会はここでは毎週沢山行われます。それらは殆どいつも満員ですが、残念ながら単に音楽のためにやってくる注意深い聴衆ではありません。そんな人はここにはほんのわずかしかいません。私はこれらの音楽会にクンツェン、シュルツ、老ツィンク、ときどきワイセの独創的名旋律の交響曲---彼の美しい独創的な交響曲はまだ出版されていない---を聴くために好んで行きました」(注61)。
 ワイセの方でもクーラウを賞賛しており、ハイドン、モーツァルト、グルック、シュルツ、ワイセ(!)と並べてクーラウのことを「まず心の赴くままを求めれば、自ずから良い結果が出る」という生き方を信奉している数少ない芸術家の一人に分類している(注62)。
 1812年5月、クーラウは継続的にコペンハーゲンに留まることを決心する。(私は当分はコペンハーゲンに留まるつもりです)(注63)。多くの演奏活動、----彼は1813年1月22日音楽アカデミーで新たに演奏会を行っている(注64)。そこでベートーヴェンの或るピアノ協奏曲(詳細は不明)のソリストの他に自身のピアノのための「新しいポップリ、ケルビーニのオペラ『二日間』のアリアによるピアノのための変奏曲(Op.12)を演奏している----と、個人レッスン、作曲にもかかわらず、彼の経済状態は悪かった。それで1813年の初め、彼は王様に宮廷楽士になる許可を求めている(注65)。ある伯爵夫人(注66)の取りなしによってクーラウは2月20日空席待ちの無給の宮廷楽士になった(注67)。同時に彼はデンマークの市民権を請願するように促され3月12日に叶えられた(注68)。。ハウクは600リグスダーラーの前払いをするように勧めている。「何故なら、クーラウは才能豊かな立派な音楽家です。彼の経済状態は非常につましいもので彼は生活の心配のため全ての芸術に必要な精神力や勇気を持つことが出来なくなっています」(注69)。しかし、彼はたった200リグスダーラーの賞与を得ただけだった。同じ年にした再度の嘆願も叶えられなかった(注70)。
 その年の春、クーラウは独唱、合唱、オーケストラのためのシラーの有名な詩、「歓喜に寄す」の大カンタータを仕上げるのに忙しかった(注71)。この作品は明らかに彼の名前を幅広く知らしめるため作曲され、王様に献呈された。目を通すため5月17日にクンツェンに送られた(注72)。彼は、その曲は「価値がないわけではないが、しかしクーラウがその歌詞の選択でもっと適当なものがあったろうに---その詩は優れているけれど----その制約された形式と内容の示している世界観の故に音楽に適していない。そして自由に作曲できなくしてしまった。」(注73)。この評価が上演を遅らせたのにちがいない。この曲は翌年、ハーモニー協会の演奏会で取り上げられた。1814年4月11日復活祭の日曜日にエーレンスレーヤーの翻訳による「歓喜に寄す」として宮廷歌手たちによって行われた(注74)。この上演も、2年後の1816年5月23日、音楽アカデミーで行われた演奏(注75)も聴衆に全く反応を起こさなかったように思える。

『盗賊の城』----家族数の増大----スエーデン旅行 1813〜15年

 代わりに注目を集めたのはその頃クーラウが作曲していたもう一つの大作、彼の最初のオペラ『盗賊の城』であった。エーレンスレーヤーは述べている。「ワイセは当時(1814年)もう一度ジングシュピールを作曲したがっていた。まだ器楽曲だけしか知られていなかったすばらしいクーラウは私に一つ書いてくれと頼んだ。私は二人の天才には各々どんなものが適しているか考えた。私にはクーラウはより軽快に思われ、ワイセの音楽は常にある深みがあり何かを予期させるファンタジーは彼の優美な夢想とあいまって私は惹きつけられた。私は『盗賊の城』を前者に、『ルズラムの洞穴』を後者のために書いた。」(注76)。『盗賊の城』の仕事についてはそれは恐らく「喜びに寄す」(1813年5月17日)が完成したあと始められ、その年の後半はそれで忙しく、翌年の初め、少なくとも3月までそうだったのであろう(注77)。彼はそのオペラの最初の方は誰にも邪魔をされない田舎で作曲することが出来た。彼は6月23日、カール・レーウェンスキョル男爵の客人としてホルベックのそばの荘園「レーウェンスボー」に出かけた(注78)。彼はそこに4ヶ月滞在し(注79)、公園の島の中に建っていたあずまやで作曲したようである(注80)。彼がそのオペラを仕上げたとき、ワイセにそれを見せている。ワイセはセリフの中のいくつかの間違いに注意を促した。クーラウは答えた。「ほら、やっぱり!」(注81)。それはいくぶん不快感を示した表現と理解できよう。(ほら、やっぱりあら探しして!)
 初演は1814年5月26日に行われた。この重要な日付はクーラウの人生にとってオペラ作曲家としての出現と国内で有名になったというだけでなく、デンマークの音楽史において彼の新しいロマン派的な音楽が保守的なデンマークのジングシュピールに必要な新風を送り込んだことを意味していいる。『盗賊の城』はすぐに大成功を収め、長い間人気が続いた。そのオペラはクーラウの存命中に毎年劇場の演目の内にあり1879年最後まで91回上演されている。後の『妖精の丘』はクーラウの最も上演回数の多い作品である。3回目の上演(1814年5月13日)は作曲家のための慈善公演で(彼はその収入を全部得た)、これは彼のオペラの中でこのような慈善公演を行えた唯一のものである。
 クーラウの経済的状況はきびしくなった。多分1814年の中頃か、もしかしたらもう少し早い時期に彼の両親と妹マグダレーナがコペンハーゲンの彼のもとに身を寄せるためにやって来た(注82)。このかなりの家族数の増大はクーラウが家計を捻出するために1815年の新年頃にベルリンから来たホルン奏者、ヨハン・クリストフ・シェンケ(注83)と一緒にスエーデン演奏旅行を計画した大きな理由であったろう。クーラウは1814年12月21日のシェンケの演奏会で「オーケストラのための大序曲」(おそらく『盗賊の城』の序曲)、いくつかの彼のピアノのための変奏曲(注84)で協演している。またシェンケは1815年1月19日音楽アカデミーのクーラウの演奏会で彼が「ヴァイオリンのG[erso, George?]氏とチェロのフレデリック・フンク氏」と一緒にベートーヴェンの3重協奏曲をデンマーク初演し、彼の小品フリーメーソン・カンタータ「善き志の輝かしき時」を演奏し、----クーラウは1814年11月7日にフリーメーソンに加入している----「古き民謡による」ピアノの変奏曲を演奏したときに協演している(注85)。
 この2人の音楽家はコペンハーゲンを1月の末に出発し(注86)、2月3日ヘルシンゲーアで最初の演奏会を行っている(注87)。Øresundのクラブハウスは「ほとんど満員だった」。2回演奏会を行ったストックホルムへ到着する4月までの間に彼らが何をしたかは詳らかではない。しかしその間、彼らは例えばイエーテボリのような他のスエーデンの都市を訪れたということもあり得る。そこで1828年、後にクーラウが訪問する友人と知り合ったかもしれない(注88)。
 『盗賊の城』序曲、ピアノ協奏曲、『二日間』によるよく知られたピアノのための変奏曲で組まれた4月13日のストックホルムでの彼らの最初の演奏会は客の入りが少なかった。クーラウの作品を誉めたある批評家は、聴衆の拍手は作品よりも彼のピアノ演奏の方に向けられていた、という意味のことを言った(注89)。次の4月29日の演奏会では再びピアノ協奏曲、「God save the King」によるピアノのための変奏曲。スエーデンの歌と踊りによるファンタジーと変奏曲(Op.25)が演奏された(注90)。ストックホルムではクーラウは宮廷楽団の何人かの音楽家たちと知り合いになったことは確かである。そこにはシェンケの兄弟、ホルン奏者のヨハン・ゴットロープがいた。またスエーデンの音楽界に重要な人物、フィンランド生まれのクラリネット奏者兼作曲家ベルンハルト・クルセルも居た(注91)。旅行の残りで我々の知る限りクーラウ(シェンケも?)はウプサラまで北上し5月の末までGälveに居て(注92)、6月1日頃帰国している。金銭上の利益は旅行費用で費やされ少ししか残らなかった(注93)。しかし、帰国の途上クーラウは旅行カバンを盗まれ、彼はその中身の損害額は220リグスダーラーと見積もっている(注94)。であるから差し引きマイナスとなった。
 それにもかかわらず、---彼の最初の「芸術家としての旅行」から帰るやいなや---彼はハンブルクまでの行程で半年後に行う新しい旅行を計画している。その間の時期、彼はいつものように作曲、レッスン、演奏会などで彼自身及び家族の生活を支えた。クーラウはいまだ決まった収入はなかった。宮廷楽士としての地位は無給の名誉職であった。冬毎にオペラ1つ[ママ!](注95)渡すのに対して一定の年俸を求めた王様への嘆願は聞き入られなかった。12月13日ハーモニー協会での演奏会で彼は再び彼のピアノ協奏曲の1つ、スエーデンのメロディによる上記のファンタジー、彼の弟子で13才のニコライ・ゲルソンと一緒にモーツァルトの2台のピアノのための協奏曲、最後に「古いデンマークの農民の歌」によるピアノのための変奏曲を演奏している(注96)。他に、彼はクリスマスの日の別の演奏会では彼のピアノのための大ソナタの1つを初演している(注97)。

ハンブルクへの最初のドイツ旅行---「タルタルスのオイリディーチェ」(1816年)

ハンブルクへの旅行はスエーデン旅行の翌年1月の末か2月の初めに行われた。クーラウはその旅行に彼の弟子の内の一人を連れて行った。その弟子は次のように報告している。「私の友人であり先生である宮廷楽士クーラウと私は二人とも元気で今あまねく知れ渡っている商業の町ハンブルクに居ます。ここまでの旅行は14日もかかっています。シュレスヴィヒで何日か滞在し無理をしないで進んで来ましたから。ホルシュタインのザーヴェルで人々は私たちをとても歓迎してくれました。ここ、ハンブルクではクーラウはよく知られてことのほか注目され愛されています。---我々はまるで王様のように常に幸せに生活しています。たった一度のことですがクーラウのヴァイオリン・オブリガートの難しいピアノソナタを商人ヴァイス宅で演奏してからというものしばしば演奏するため我々は毎日昼も夜も上流の家庭に招待されています。クーラウの先生である卓越した理論家で厳しい批評家の音楽監督シュヴェンケも一緒でした。我々が他の友人たちの所に行かないときは我々はいつも彼の所に招かれます」(注98)。3月6日、クーラウはハンブルクオペラのコロラトゥラ・ソプラノ、ミンナ・ベッカーとバスのゲルシュテッカーと一緒にアポロ・ザールで演奏会を行った。その内容はいつものようにピアノ協奏曲、フリーメーソン・カンタータ、クラリネットとピアノのためのソナタ、ピアノ変奏曲、『盗賊の城』序曲で(注99)、この序曲は一週間後の演奏会でも演奏された(注100)。この旅行の主な目的は正にこのオペラの最初の国外上演であった。それは3月22日。彼自身の指揮でハンブルク市立劇場で行われた。そのオペラは喝采を博し、クーラウは演奏後ステージでカーテンコールされた。このようなことはどんな作曲家にも久しく行われたことがない名誉であった(注101)。『盗賊の城』はあと4回満員で上演された(注102)。アデライーデの役はミンナ・ベッカーが歌い、クーラウは彼女のために最後の幕で技巧的なアリアを新しく作曲した。ゲルシュテッカーはアイマールの役を、ユリアーヌの役をクリューガー夫人が歌っている(注103)。彼女はクーラウが自身ピアノ協奏曲、スエーデンのメロディによるファンタジーを演奏したハンブルク市立劇場おでの4月13日に行われた最後の演奏会でもそのオペラからのアリアを歌っている(注104)。ミンナ・ベッカーがコペンハーゲンに来ることを決心させたのは間違いなくクーラウの勧めによるものであろう。彼女は4月16日コペンハーゲンに到着した。クーラウは恐らく数日後に到着した(注105)。彼女はポピュラーな技巧的なアリアを数回の演奏会で歌い。彼女が去る少し前の6月17日、クーラウが彼女のために作曲したバゲセンのテキストによる叙情的劇的情景『タルタルスのオイリディーチェ』の初演を行っている。それは前のアリアよりもより一層彼女の信じられない程のテクニックの完璧性を示している(注106)。

劇場における声楽の教師----『魔法の竪琴』---『アルフレッド』---宗教改革カンタータ(1816年〜17年)

 この年の夏、クーラウは王立劇場側から歓迎する旨の手紙を受け取った。劇場の声楽の教師(クンツェンの後任)として年俸500リグスダーラーで雇うというものであった(注107)。その内容は個人レッスンをすることで、彼の生徒の中には男優のゴットロープ・ステーエ、カール・ウインッスロー、女優のヘンリエッテ・ヨアセン、女性歌手ロシーネ・ロフラーがいた(注108)。彼らは後に彼の作品の多くを初演することになる。しかし、クーラウは教育者として良くはなかった。生徒たちからしばしばレッスンをおざなりにすると嘆かれたが、言葉の端々から想像するにクーラウの側からも同様の不満があったらしい(注109)。彼は1年の勤務の後、彼が神聖な作曲に専心できることを常に願望していること、又生徒たちのために歌うという激しい努力が彼の弱い胸に耐えられないため健康が害されてしまうという理由で、その職を辞めることを願い出た(注110)。劇場のために毎年1つのオペラを作曲することで彼の年俸はそのままもらっていてよいかという彼の請願は拒絶された。しかし、彼が提出する各オペラに対して支払うということは約束された(注111)。
 恐らく彼が職を辞めたことはクンツェンの死後新しく任命された楽長クラウス・シャルとの不仲によるもので、彼は「クーラウをすぐさまライバルとみなし、彼を押しのけようとした」のに違いない(注112)。クーラウはシャルのことがあまり好きではなかった。クーラウは作曲家としてのシャルを「いかさま師」とみなし(注113)、彼についてはこう言っている。「彼は8小節を順序よく作曲できない」(注114)。
 同様にクーラウとクンツェンの関係も緊張をはらんだものだった。クーラウは彼に腹を立てていた。なぜなら彼は『盗賊の城』について軽く見るような発言をしていたからだ。「今時の若い作曲家たちは力もないのに大曲をすぐ書きたがる。ケルビーニの曲を二、三調べてそれに習って書いてもケルビーニが作曲したものにはとてもかなわない」(注115)。
 クーラウの2番目のオペラはこの時期に仕上がった。常に満員となる『盗賊の城』の成功に元気づけられて、バゲセンのテキストによる『魔法の竪琴』を自発的に書き始めた。その時期は彼はまだ劇場とのオペラ作曲の契約的義務は負っていなかったのだ。デンマークの文学史と音楽史の中で台本のゆえに悪名高いものとなった『魔法の竪琴』は1787年にさかのぼるドラマティックな物語があるが、後に述べることになろう。バゲセンとクーラウの共同作業はクーラウがバゲセンの叙情的劇的情景『タルタルスのオイリディーチェ』に音楽を付けたあとの1816年夏に始まったに違いない。クーラウは『魔法の竪琴』でその年の後半を費やし劇場に遅くとも12月の中頃に提出した(注116)。完成させるために仕事を急がなければならなかったことがロシーネ・レッフラーが出演を予定していたハーモニー協会の12月12日の演奏会が「宮廷楽士クーラウ氏の病気のため」12月25日に変更された理由かも知れない(注117)。しかし、この音楽会の延期は、その音楽会でレッフラー嬢が初演したサンダーのテキストによる叙情的情景『幸せな英雄』をクーラウはそれまでに作曲しなければならなかったことによるものかも知れない。この作品(訳者注:『幸せな英雄』)を彼が思いついたのは、半年前同様の作品『タルタルスのオイリディーチェ』がミンナ・ベッカーによって大成功を博したからであろう。『魔法の竪琴』の練習がすでに始まっていた1817年の1月初めに、クーラウは1月28日の王様の誕生日に合わせたこの「誕生日演目」のため声楽の教師ルートヴィヒ・ツィンクのもとに出向くように劇場から促された(注118)。その稽古に立ち合うようにということだろう。しかし、実際にはその初演は1月30日に行われた。このオペラのそもそものスキャンダルな事件は二、三日前から始まった。神学学生ペーダ・ヨートがバゲセンはドイツ語のオペラ『オシアンの竪琴』からテキストを剽窃したと咎める文書を配布した(注119)。このことは人々を興奮させた。初日(王様が臨席していたので静かに経過した)のあとの2回目の上演ではバゲセンの台本に対してものすごい野次と口笛が湧き起こった。劇場の歴史の中でこれに匹敵する大騒ぎといえば2年後の第3回目の上演の時だけである。全ての中でたった1つクーラウの音楽だけが同情と賞賛を受けただけである。拍手が起こるたびに「クーラウ、万歳!」という叫びが聞こえた。しかし、それ(訳者注:クーラウに対する賞賛)も、このオペラが当面、演目から外されるのを妨げることはできなかった。なぜならバゲセンはペーダ・ヨートを告訴したからである。裁判が行われている間---この事件は翌年5月、バゲセンが剽窃の疑いが晴れ勝訴したことによって解決した(注120)。---クーラウはこのオペラの慈善演奏会を勝ち取るため絶望的ながら相変わらず見込みのない経済状態のためにはやむを得ず必死に嘆願した。「裁判の最終判決が下るまで待つということは私にとって非常に苦しいことになります。台本だけの問題で私はこの件には何の関わりがありません。」と請願書で述べている(注121)。この請願書も、別のオペラ(!)と対話の部分を削除して『魔法の竪琴』のいくつかの曲を上演しようと提案しているその後の請願書もどちらも退けられた(注122)。そこで彼は1000リグスダーラーの前払いを要求することが必要となったが(注123)、その代わりに国庫の一般用途の財源から1200リグスダーラーの借入金が認められた(注124)。このペラが初演された2年後、バゲセンはクーラウの知らない内にこのオペラの慈善公演を自分自身のために行うことを企画した。そのことを人伝に知ったとき、クーラウはバゲセンよりも先に自分の慈善公演を開いてよいかを願い出たが(注125)、二人で1回だけ行って、分け合うようにという回答を得た(注126)。金銭上の合意がどのように行われたかは知られていないがクーラウは正に貧乏くじを引いたのである。なぜなら、2月24日に行われたこのオペラの第3回目にして最後の公演は「作者のために」上演されたのであるから(注127)。今までの内、混乱を巻き起こした劇場の最も大きなスキャンダラスな上演としてこの上演は前回ものよりなお一層ひどく、軍隊の介入によりやっと治まった(注128)。
 『魔法の竪琴』の数少ない上演に対するクーラウの失望は『盗賊の城』が数多く上演されたことである程度補われた。この他にいくつかの音楽会が加わった。ハンブルクオペラのゲシュテッカーはゲオルク・ツィンクと一緒に1817年5月に2つの音楽会でこのポピュラーになったオペラからいくつかのシーンを衣裳を着けて歌った(注129)。またプロイセン宮廷歌手L.フィッシャーは同じ年の11月の演奏会でツィンクと一緒に一幕からのアイマールとカミロの二重唱、最後にクーラウが彼のために特別に書いた技巧的アリアを歌った(注130)。そしてクーラウは当時の作曲家の多くと同様、劇に良く適した台本を見つけるのに苦労していたにもかかわらず新しい舞台作品に手をつける勇気を失ってもいなかった。ハンブルクの戯曲作家であり劇場支配人であるシュミットに宛てた1817年4月26日の手紙の中に、現在彼はサンダーによって翻訳されたコツェブーエの「アルフレッド」に音楽を作曲していると書いている。しかし、この台本は明らかに彼を惹きつけなかったようである。なぜならその手紙は彼に対してリブレットを書くための時間を取ってくれないかというシュミットへの依頼と力を込めた言葉「あなたのお望み通り作曲するよう全力を尽くすつもりです」で終わっている(注131)。彼は劇場の声楽の教師を辞めたとき(1817年8月1日)、新しいオペラに対しては支払うという申し込みを受け、それに鼓舞されて9月の初め劇場当局に『アルフレッド』の仕事をしており、4ヶ月か5ヶ月以内に仕上げられそうだからその年の冬に上演できないだろうかと訊ねている(注132)。しかし、当局からその返事があったあとにその仕事は中断された。この時以降このオペラに関して何も言われていない。また、すでにどの位まで作曲されていたのか、後にこの音楽が使われたことがあったのかどうかと言うことも分かっていない。この年の主要作品は詩人フレデリク・ヘー=グルベアのテキストによる宗教改革カンタータである。彼はクーラウの最も親しい友人の一人で---クーラウがノアブローに引っ越したとき隣り合わせに住むようになったので----歌曲の歌詞やクーラウの請願書や嘆願書の世話を焼いていた。それらの一部分は彼の筆跡で残っている。一方、デンマーク語に弱いクーラウはただ署名するだけだった。ヘー=グルベアはワイセのためにも宗教改革カンタータを書いている。これは大きな宗教的カンタータという二人にとって新しい分野でワイセとクーラウの二人の内で(どちらが優れているかという)音楽上の力試しの機会となったと言われている。軍配はワイセにあがった。クーラウのカンタータは10月31日トリニタティス教会で演奏されたが彼の多くの崇拝者にとってがっかりさせるものであった(注133)。「音楽は二三の声部が狭すぎ私がクーラウに期待していたほどには良いとは言えなかった。しかし、(あんな)歌詞には良すぎたくらいだった。昨日の[ワイセのカンタータ](注134)よりも気が抜けてくだらないものであった。」と聴衆の一人は書いている。クーラウのカンタータは2回目でかつ最後として1818年3月21日ハーモニー協会の彼自身の音楽会で演奏された。ソロのパートはカタリーヌ・フリュゼンダール、ヨハンネ・E・ダーレン、ゲオルク・ツィンク、G.W.クルセによって歌われた(注135)。

 

デンマーク 1810年〜1832年

(ゲネラルバスのレッスン----有給の宮廷音楽家----ノーアブロー----『エリサ』---- 『精神の試練』----労働条件の改善----音楽会活動および批評報告活動の停止----モーツァルトの息子の訪問(1818〜21年)

 1817年のクリスマスの頃、次のような記事が載っている。「私はしばしば音楽愛好家の人たち、また音楽を専攻した人たちからゲネラルバスの講義をするよう頼まれています。私は自分の仕事もあり1人1時間というわけにはいきません。そこで私は1週間に2回、役立ちもし興味深いこの学問をグループレッスンで行うことに決めました。勿論、音楽の基礎知識と歌がいくらか歌えるか、あるいはなにか楽器を演奏できることが条件です。このレッスンの費用は非常に安いものとなるでしょう。これに参加を希望される方はヴェスターゲーゼ11番地、右側の部屋の私の住所宛に名前を書いてお申し込みください。宮廷音楽家。フリードリヒ・クーラウ(注136)」。「このグループレッスンは24時間分の券が12リグスダーラーです(紙幣で)。」(注137)というものだったが、多数の申し込みがありクーラウは1月21日に開始される前に毎週4時間を水曜日の夜と日曜日の午後に行うというこのコースの他にもう一つ別のクラスを作る(注138)。次に述べるように彼の生活条件が大幅に改善したにもかかわらず5月に新しい2つのクラスの開講が広告された(注139)。1818年4月25日、ついにクーラウは有給の地位を手に入れた。すなわち「ユンクの死により空席となった年俸300リグスダーラーの地位」を得たのである。陛下の居間で鍵盤楽器あるいはピアノを演奏することの他に、命じられた時には宗教上のあるいは宮廷の機会音楽を作曲すること、しかし命じられない場合は王立劇場のために1つの作品を書くことに対して支払われるのであった(注140)。言い換えれば彼は1813年から無給でこの地位にあったが今や有給の宮廷音楽家になったのである。しかし、給料は王侯貴族のように暮らせるにはほど遠かった。その1ヶ月後の5月27日、クーラウが彼の家族と一緒に「ノーアブロー44番地、ピアノ弾きブリンクの農場」に引っ越したのはこのことと関連させて見なければならない(注141)。そこは城壁の外であった。5人(両親と妹の他に従姉妹、従兄弟、オールボーのオルガニスト、クーラウの叔父の子供たちである(注142))の家族を養わなければならないとしたら決められた年俸、理論のレッスンと作曲による収入では、市内に住む家計費には追いつかなかった。
 ちょうどこの頃、クーラウのオペラ創作に非常に重要な人物が登場する。学校の教師、神学者、文筆家カスパール・ヨハネス・ボイエである。彼はクーラウに全部で3つの劇場用テキストを提供した。クーラウは劇場のため作曲することを義務付けられた新しい地位についたあと、最初の作品として8月2日、劇場当局からボイエの声楽曲『エリサ、又は友情と恋』が送られた(注143)。彼は「ゲネラルバス」のクラスを休まなければならなかった。彼は11月に再開しようと考えていたが(注144)、それは1ヶ月遅れてやっと始めることができた(注145)。彼はヨアヒム・ゴスケ・モルトケ伯爵の思い出として葬送カンタータ(ラーベックのテキストによる)を作曲しなければならなかったのだ。それは12月17日トリニタティス教会で演奏された(注146)。
 1819年1月の終わりにクーラウは『エリサ』の第1幕と第2幕を作曲した(注147)。総譜に書き上げて劇場に送られたのが2月の初めで(注148)4月の中頃に全オペラを仕上げた(注149)。ボイエは出来るだけ早くオペラ上演させようと仕事を急がせていたのだった(注150)。彼は配役について一致した提案を書き送り彼もクーラウもその年のシーズンに上演させることを望むと述べている(注151)。しかし、『エリサ』が上演されるまで丸1年かかった。なぜなら新しい劇場シーズンではソリストたちのことで問題が起きていた。主役は最初カロリーネ・リンと考えられていた。が、---クーラウのせいだろうが---ロシーネ・レフラーに与えられた。彼女は11月の終わりにそのパートが難しいと言いだし(注152)新しいシーズンの練習を遅らせた。しかし、2ヶ月後の劇場当局の決定によりその仕事は進められた。ボイエもクーラウも他の女性歌手を見つけることが出来なかったからだ(注153)。同時に『エリサ』は「誕生日作品」(1月28日)後の最初の作品として上演することが決定された。しかし、1ヶ月後ハークに代わってP.ホルムが神父アントンの役になり(注154)、初日は1820年4月17日初めて迎えることが出来た。このオペラはその後たった3回の上演だけで演目から外された。(4月20日、4月26日、5月2日)。批評はロシーネ・レフラーの歌と演技をほめているが音楽については意見を控えている(注155)。3回目の公演はボイエの慈善興行となった。クーラウは彼自身も同じような興行を行うこと、と同時に昇給を請願したが両方とも拒絶された(注156)。
 『エリサ』の完全な総譜を提出したすぐ後にクーラウは(1819年4月28日)劇場当局からラウリス・クルセのテキストによる「精神の試練、あるいは闘いの物語」の新しいジングシュピールが送られた(注157)。クルセは王妃の誕生日(11月28日)に上演してほしい考えであったが、当局としてはそのようなことは約束できないとみなしていた(注158)。クルセによればクーラウは作者によって劇場に提出された何ヶ月も前にテキストをすでに知っており、それに満足し、作曲をするのによく適していてそれを変えたいと思っていないということであった(注159)。しかしこのオペラの作曲はうまくいかなかった。なぜならクルセはその間ドイツに旅行をしていて協議することが出来なかったからである。1821年1月、すなわちその台本を受け取った2年後にいつ頃音楽が出来たかという当局の問い合わせに対してクーラウは劇場音楽作曲家として彼の仕事を大いに明らかにしてくれる次のような答えをしている。「作詞家は声楽曲を書く時、音楽が要求することを考慮するのは非常にまれなことです。いつも大変な手直しが行われます。ある時は重々しいものが沢山続いたかと思うと今度は元気なものが沢山続き、それによって快い場面の転換が損なわれてしまいます。又ある時は同じシラブルが多くのアリア、二重唱、コーラスに用いられ、それによって常に同じような結果になってしまいます。しばしば場面は音楽と一致しません。又しばしばアリアよりも二重唱が適していたのにという場合やその逆の場合もありました。もし作曲を是非とも成功させなくてはならないという場合には作詞家の作業ですべきことは常に沢山あります。作詞家もそれによって賞賛されることになるのです。しかし作詞家がそばにいなければ作曲家は一人でこの困難に立ち向かわなければなりません。その場合、作曲家にとって速やかに進むことは不可能なことです。そして何度も全く避けがたい困難に陥ってしまいます。そしてそれらの困難は先に進む喜びと勇気をくじいてしまうことになります。自分の名誉を失うような仕事をせざるを得ないことがわかるからです。前述の作品は正にこれに当てはまります。その作詞家はそばに居らず、従って私に何の力も貸してくれません。それゆえ私はこの作曲が私を脅かしている(今回の作曲で私が強いられている)問題を全て一人で克服できるほど自分が強いとはこれまで思ったことがないと言明するとともに、作詞家がそばにいた前回のように、仕上げることが出来完成品として作品を引き渡せる期日をまだ決めることが出来ない場合でも寛容を示してくださることをお願いいたします。(注160)」クルセは彼の友達の一人にテキストの修正を頼んだが(注161)、しかしそれにもかかわらずこの時点でこの仕事全体は座礁してしまう。我々はこの音楽の痕跡を全然持っていない。問題はクーラウが彼自身の手紙の中で、確かに作曲したと書いているけれど---4年前の『アルフレッド』も同様である---このオペラをどれだけ作曲したのかということである。
 仕事がきつくなることや彼の経済状態悪化によって(かってないほど苦しめられ)、クーラウは1821年の初め王様に宛て2通の請願書を出している(注162)。その1つは有給のまま2年の外国旅行、特に「音楽の祖国」すなわちイタリアを考え、帰国したあかつきには「私のより高度な研鑽を更に役立てることが出来る」としている。これは受理されたが同じ書類の中での『エリサ』の慈善公演は却下された。このような慈善公演は半年前に廃止されたという理由で。もう1つの請願書でクーラウは、1年に1つのオペラか行事に際しての宗教音楽かを提出するという彼の義務を1年おきにしてもらいたいこと、又同時に彼が---もし旅行の許可が出たら---この旅行の間は「精神の試練」及び他の曲を作曲することを免除してほしいというものである。この仕事を減らしてもらいたいという彼の理由は---後に同じことを何回もするが---大きな作品を書くには(彼には半年が必要である)先ず重要な収入源であるプライベイトレッスンを殆ど全面的にやめなくてはならないということである。慈善公演がもしあれば助かっただろうが。同様にクーラウの後の労働条件にとって大変重要なことであるこの請願書の要求は認められた。「多くの凡庸な音楽作品よりも僅かの優れた音楽作品を得ることの方が遙かに重要である。300リグスダーラーでは作品の重要さ、あるいは規模に釣り合っていない額である注163)。」と見通したハウクの推薦があったことも大いに役立った。劇場当局もこれを受け入れたが、やはり「精神の試練」は帰国した後のクーラウの最初のオペラとなることを希望した(注164)。
 クーラウのもう1つの収入源である演奏活動は明らかに利潤の少ないものであった。彼は晩年にはそれを全くやめてしまった。1819年3月3日、彼は市民協会のゲオー・シンクの演奏会(注165)で自分のf-mollのピアノ協奏曲を弾いているがそれに続く2年間は1度も演奏会が無く公開の場での最後は---1828年のスエーデン・ノールウエイの旅行におけるいくつかの演奏会を除いて---1822年1月の2回の演奏会である。(Busk著、48ページ参照)同様に「一般音楽新聞」に寄稿する仕事も重荷になり、コペンハーゲンの音楽事情を数多く送っていた仕事を1819年5月にやめH.O.C.ツィンクにその仕事を譲った(注166)。
 1819年9月29日、W.A.モーツァルトの息子が父親の作品で演奏会を行ってコペンハーゲンに滞在中にその演奏会の前に ワイセとクーラウを訪問している。それについて彼は述べている。「我々の知っている当地の二人の巨匠、ワイセ氏とクーラウ氏は私に対してまだ少しも好奇心を示さなかった。『私』自身に興味があるというよりも父の息子と知り合いになるという感じだった。私は二人とも訪問した。」(1819年9月3日の日記)。「私はこの日の昼にクーラウを訪問した。彼は非常に難しくかつ良くというよりもむしろ技巧的に作られた彼の作品のソナタをピアノで演奏した。しかし技巧的以上のものではない。なぜなら、それは実のところ美しくなかったからである。彼のスタイルは特に私の気に入ったものではなく、私には彼は趣味に欠けているように見えた。あるいはそれは大部分彼の全くひどい楽器のせいだったかもしれない。彼は音楽技巧の大いなる愛好者である。勿論これだけであったらこの高貴なる芸術の価値はない。彼は謎のカノンのあらゆる可能な種類を探すのに必死となっている。彼はそれらを沢山作曲もし全く新しい種類のも発明している。彼が非常に理論に長けていることはこのことからも証明されるが、彼の音楽は心には全く訴えかけない。」(同書の1819年9月13日)。ワイセはもっと良く書かれている。「ワイセはピアノで即興演奏をした。この人の演奏を聴くことは非常に興味深いことだ。これは私にとってまれに見る楽しみだった。」(同書の1819年9月22日)。「ワイセは彼の作品を私に沢山弾いてくれた。その内のいくつかは非常に美しいものである。また、彼は『マクベス』の間奏曲を作曲した。それは確かに非常に人の心を揺り動かす。」(同書の1819年10月2日)(注167)

2度目のドイツ旅行----ウイーン(1821年)

 1821年3月初めに、クーラウは彼の長期の旅行に旅たった。予定通り2年間続いたものではないが彼の旅行では一番長いものになる。(計10ヶ月)。彼はヘルテルに招待されているライプツィッヒに来る前に恐らく1つあるいはいくつかの都市(ハンブルク、ベルリン?)に滞在したに違いない(注168)。ライプツィッヒでは彼は丁重に迎えられた。又彼自身もそこに滞在したことは心地よかっただけでなくいろいろな観点で彼にとって学ぶことが多かったと言っている(注169)。それは彼は音楽上のことで何か助言を得たという意味かもしれない。ザクセン・スイスを通って(注170)彼は6月の何日かにウイーンに到着した。そこで彼は述べている。「私は今、気に入ったウイーンの町にいて、我が家にいるようにくつろいでいます。レオポルトシュタットの親切な宿に住んでいます。作曲するにはまたとない、とても落ち着いたところです。」明らかにライプツィッヒで話に出たものだがヘルテルから「曲集の歌詞、2本のホルン付き4声のノットルノの歌詞、二重唱の歌詞」(注171)が送られてくるのを待っている。しかもこれは送られなかったのか、あるいはクーラウが作曲をするのをあきらめたのかどちらかである。というのはこの種の作品は知られていないのだ。
 クーラウはウイーンに約4ヶ月留まっている。コペンハーゲンへの手紙の1つに彼の滞在の様子を生き生きと書き送っている。「ウイーンはその住人と同じように陽気で親切です。ここの人は皆楽しむために生き、享楽することに喜びを見いだしています。自然や芸術はしばしば選ぶに困るほどここではいろいろな楽しみを供しています。多くの公共の娯楽場の他にここには毎晩公演が行われている5つの劇場があります。2つの王立劇場、すなわちブルク劇場とケルントナートール劇場は最も優れています。そしてこの2つの劇場の人たちの殆どが有名な芸術家です。ほかに著名な劇作家でも何人か、ツィーグラー、レンベルト、ヴァイセントゥルム夫人などがいます。演劇はここではおしなべて全く素晴らしいもので、私はオペラよりもよく行きます。なぜならここでもロッシーニの本質である不潔な精神がはびこっているからです。グリュンバウム夫人は一級の歌手です。私が今まで聴いた内で最も偉大な女性歌手です。残念なことには彼女は、特にここで非常に好まれている『泥棒かささぎ』のような大音響が支配するロッシーニのオペラ以外では聴くことが出来ません。そこでは絶え間なく吹き続けるトランペットやドンドン鳴るティンパニーばかりでなく、大小の太鼓、シンバル、トライアングル等が耳を圧し、それによって人は叫び出したくなります。(こんなオペラはちょうど路上で消灯信号に出くわし、それから逃げ出したくなるようなものと同じです。)お願いだからもう一度静かな音楽を聴かせてくれ!---私がここに滞在していた間にたった1度だけモーツァルトのオペラが上演されました。『魔笛』です。客席はまばらで、女性歌手か男性歌手の誰かがモーツァルトの高貴なメロディーをロッシーニ流のけばけばしい飾り立てで歌った時だけ拍手されました。このことからここでは、今や音楽は最上の趣味で行われていないということが分かります。その他のことでは、ここでは私なりに非常に快適に過ごしています。朝は作曲し、午後は散歩に出る か、ウイーンの名所を見てまわります。そして夕方は私にとって常に大いなる楽しみとなっている劇場に行きます。優れた芸術家以外との交際はここではしていません。意識的に避けています。なぜならかなりの旅行費用を稼ぐために私は非常に勤勉でなければならないからです。そうしないと私の仕事が邪魔されるのです。---どんなにこの旅行が楽しいものであろうとも私はコペンハーゲンや両親やそちらにいる友人たちのもとに戻りたいと思います。また私は多くの出版社と個人的に知り合いとなったので情報提供の仕事をやめ単に作曲の収入だけでやっていけるようになりますから、今後は以前よりも楽に生活できるだろうと期待しています。---私がさらにイタリアへ行くかどうかはまだ全くはっきりしていません。二、三週間の内にミュンヘンに向かい、それからドイツのそのあたりの素晴らしい町をいくつか廻り、来年の春には再びコペンハーゲンにたどり着くということになるかもしれません。」(注172)
 クーラウはイタリアに行かなかった(注173) 。彼は10月の初め、ウイーンを発ち、確かにミュンヘンに短期間滞在し、その月の終わりに彼の兄、アンドレアスを訪ねるために再びライプツィッヒまで旅行した(注174)。そこでは兄は大きなタバコ工場を経営していた(注175)。11月1日のゲヴァントハウスでの演奏会で『魔法の竪琴』の序曲が演奏された(注176)。しかし、その時の滞在は短いものだった。なぜなら11月の終わりには彼はハンブルクに居るからである(注177)。恐らくハンブルクでもほかのドイツの都市で行ったように『盗賊の城』の来るべき上演を画策するためだったのであろう(注178)。
 ハンブルクでペテルブルクの宮廷音楽家、ホルン奏者のヨゼフ・グーゲルが同じくホルンを奏する彼の14才の息子と一緒に11月26日「オテル・ドゥ・ルシー」で演奏会を行った(注179)。彼らと知り合いになって、間違いなく一緒に---当時の習慣によるとその演奏会の直後---キール経由で北上の旅に出た(注180)。同じく彼らと一緒に、後にクーラウの弟子となったスエーデンのピアニスト兼作曲家のカール・シュヴァルツも同道した。またクーラウは旧友バス歌手L・フィッシャー(Busk著、39ページ参照)にも巡り会っている(注181)。
 12月の中半に帰国する予定だったが(注182)、クーラウはシュレスヴィッヒ---ホルシュタインに1ヶ月以上も留まっている(注183)。すなわち11月の終わりからクリスマスまでである。新年は1月2日、オーゼンセの市庁舎ホールの「音楽愛好家」の伴奏で彼がグルゲルとその息子と一緒に行った「それほど多くない聴衆のための」演奏会で幕を開けた。クーラウ自身は彼の作品37のディヴェルティメント、作品25のスエーデン民謡によるファンタジーと変奏曲を演奏した(注184) 。二、三日後彼らはストアベルトを通って1月7日コペンハーゲンに到着した(注185)。二人のホルン奏者は1月27日、王立劇場で演奏会を行った。その時、クーラウは彼のいくつかのピアノのための変奏曲を演奏した(注186)。---コペンハーゲンでの彼の最後の公開の舞台は---そして、2月24日新しい演奏会を企画した。(しかし、後になって取りやめとなった)その音楽会ではクーラウが道中彼らのために作曲した作品45の2本のホルンとオーケストラのための『コンチェルタンテ』が初演されることになっていた(注187)。

甥、ゲオルク・Fr.クーラウ----ブライトコップフ&ヘルテル社との決裂、---『モーセス』----『ルル』の準備----ハンブルクへの3度目のドイツ旅行(1822〜23年)

 彼の不在中にクーラウの家族にもう一人加わった。インドのカルカッタで音楽楽長をしている一番上の兄、ゴットフリートがその子の将来の音楽の勉強をクーラウが見るべく12才の息子ゲオルク・フリードリヒを連れて一緒にコペンハーゲンにやって来ていた(注188)。自身音楽家であり自分自身でも息子を更に教育できるであろう父親が彼を養子に出したというのは奇妙に思える。しかもすでにクーラウが家族を養うことで大いなる負担を背負っていたという時に。しかしこの兄はクーラウに言わせると「変わった男」で、彼が「一般音楽新聞」に載せるため彼から得たインド音楽の僅かな情報に次のように書き添えている。「音楽は彼にとってカルカッタでなにがしかのお金を得るためのものという以上に興味を惹くものではありません。理解しがたいことですが、彼は黒人の---ヒンズーの---音楽に対して全く注意を払いませんでした。(注189)」その他のことではこの若者に対して彼が「興味深い少年」と述べているように喜びを感じていた(注190)。
 この時期におけるライプツィッヒの出版社ヘルテル宛の手紙には不満と辛辣の色が濃くなっていった。彼は中でも彼の作品における殆ど使い物にならないほどの「ひどい印刷ミス」を訴え、また彼の音楽を評価するにはもっと知識豊かな批評家を使ってほしい、「なぜならこの批評家は、全くあからさまな無知をさらけ出しているから」と言って頼んでいる(注191)。この批評家は疑いもなくヘルテル本人であった。いずれにせよそのすぐ後ヘルテルはクーラウに出版社は彼の作品は出版する希望はないと伝えてきた(注192)。
 この年、当時デンマークの2番目に大きな都市、オーゼンセがクーラウの名前と関連して2度目の登場をする。その理由は次のようなことである。すなわち1821年から22年の新年にクーラウがドイツ旅行の帰りのオーゼンセ滞在中のことだが何年かの中断の後にドイツの劇場支配人のゴルビン・フランクが彼の一行とともに新しくオーゼンセの舞台に登場した。一座の仲間の中でベッカー一家等が非常に好評を博した。そしてカール・ベッカーは間もなく自分の劇団を結成した。その中心は5人の家族でありみな非常に音楽的であった。彼らは1822年の秋、再びオーゼンセに来て(注193)12月にE.A.クリンゲマンのクーラウの歌と行進曲付きの劇『モーセス』を大成功の内に上演した(注194)。このことからクーラウがオーゼンセ滞在中にカール・ベッカーとこの演劇に付ける音楽を作曲して渡すことを約束したのは明らかなように思われる。その初演は12月8日に行われた。その公演は美しい舞台装置も全体としても上首尾に行われた上演も絶賛を博した(注195)。「劇場は、この珍しい作品を上演するに当たり衣装に関しても、優れた照明に関しても適切な華やかさを出すには経費の出し惜しみをしなかった」と事前に言われていた(注196)。この音楽は失われてしまった。
 1822年8月、法学者C.C.F.ギュンテルベアは彼の魔法劇『ルル』を劇場当局に提出した(注197)。当局はこれに大喜びをし、すぐさま上演用に採用した(注198)。すぐにこの作曲者としてクーラウに白羽の矢が当たった。彼は1823年1月28日に公にその作品が送られた後、彼自身も受け入れる用意があることを明らかにした。しかし彼は彼の生活状況を説明する次のような理由をつけて年俸300リグス・ダーラーの増額昇給を請願した。「---このような仕事に必要な時間、少なくとも半年はかかるであろうことに年俸300リグスダーラーという少ない俸給のままというのでは見るからに不適当な状態です。同じ時間をかければ私の関係している外国の出版社との契約で1200〜1500リグスダーラーを得ることが出来るのです。それだけの収入は国外での名声が保証してくれます。そしてここで私の家族とともに暮らすためにはどうしてもそのくらいは必要なのです(注199)。」この昇給は却下された。しかしハウクがもう少し経てば受け入れられるだろうとの旨を示したのでクーラウをそのオペラに着手した(注200)。しかし彼は600リグスダーラーの前払いを、もしそれが行われないならばこのオペラを作曲できなくなると条件を付けた。そしてその請願書は「不可能なことは閣下、私にお求めにならないでください。」と悲痛な言葉で結ばれている(注201)。
 予定したよりも長くかかった『ルル』の仕事は---1年と数ヶ月---その間、短い外国旅行によって中断された。1823年4月、クーラウは家族の個人的な用事を理由として2ヶ月、長くても3ヶ月のドイツ行きの旅行許可願いを出した。と同時にこのオペラは「この旅行によって支障を来すことなく、来る冬には完成を見るに違いない」と保証している(注202)。4月24日に彼は弟子のカール・シュヴァルツと友人のザクセン宮廷の作曲家兼フルーティストであるA.B.フュルステナウと一緒にベルリンへ旅立った(注203)。
 この旅行に関して殆ど知られていない。その理由である家族の個人的な用事とは長姉のアマリエと結婚したクーラウの義理の兄の商人ニス・イェプセンがハンブルクで重い病気にかかっていたことを指すのかもしれない。彼は6月25日死亡した(注204)。クーラウがこの場に居合わせたことは自明なことであるが、彼が直接ハンブルクに行ったのか、あるいはそれ以前にベルリン(又はメックレンブルクの温泉地ドッベラン?(注205))に滞在したのかは知られていない。クーラウは7月のある日再び家に帰ってきた(注206)。

『ルル』(1823年〜24年)

 『魔法の竪琴』と『エリサ』の不成功の後、クーラウは『ルル』を成功させることに全力を賭けた。これらの前のオペラの批評(Busk著、42,134,250ページ参照)は確かに心に留めていた。そして今や彼はその音楽をより舞台に適するように、また劇的にするように心血を注いだ。彼が『ルル』のために多くの時間を費やした証拠は沢山残っている。9月の新しいシーズンの初めに、彼は「舞台と歌手の能力を正確に知ることによりデンマークの作曲家としての私の芸術を基礎づける」劇場公演のフリーパスを求めている(注207)。彼はこのシーズンいくつかのオペラを観たようだが、「しょっちゅう来ていたわけではなかった(注208) 。」 
ギュンテルベアとの共同作業については次のようなことが分かっている。「ギュンテルベアは『ルル』の創作中、主導権を握りたがるクーラウと全く意見が合わなかったが、しかし互いにだんだんと相手の考え方が分かるようになり、非常に協調して仕事をするようになった。歌詞と曲との作業はこうして同時に進行した。作詞家はクーラウから『ルル』のメロディーをもらい、ギュンテルベアがやっていたフルートで吹いたりして恐らくこんな風にしてだんだん仕上がったのだろう(注209)。毎週火曜日の卸売り商人のM.L.ナターソン家で行われる夜会の音楽演奏にクーラウは追々作曲したそのオペラからの何曲かを持ってきてその家の娘、ベラやハンナ、言語学者アブラハムス、秘書のイェンス・ルン等にそれらを通して歌わせ、その音楽的効果を試すことが出来た(注210)。ギュンテルベアはクーラウが「1年以上も彼の時間を人にまねの出来ないくらい捧げ、そのオペラにこれ以上はないほどの勤勉さを投入した」と述べている(注211)。またクーラウがこの仕事にどんなに熱中していたかはギュンテルベアの親友、ルートヴィッヒ・ベッチャーの次の証言がある。「クーラウは『ルル』の作曲中、次第にその登場人物の中に没入していった。特に「シディ」が彼の興味をとらえた。彼女についてクーラウはこう言っている。『こんな女性が私は好きだ。こんな女性と結婚したい』。クーラウは当時未婚のトムセン嬢を好きになっていたが、彼女は他の人を選びツィンク夫人になった。(注212) 」
 1824年2月、『ルル』の仕事が非常に前進したのでギュンテルベアは劇場当局にクーラウの保証するところによると4月に完成するであろうし、第1幕のオーケストレーションは出来上がっているこのオペラをその年のシーズンに公演してほしいと願い出る(注213)。これはある手紙の中でクーラウによって繰り返された願いである。この作品は3月に完成するだろうこと、「この作曲は劇場の会計に決して損を与えないことになろう」とクーラウはその手紙の中で言っている(注214)。またクーラウの配役の提案も知られている。すなわち、妖精ペリフェリーメの役はマリー・ヘーアーあるいはブリギッテ・E.アナセン、シディの役はエレオノーレ・ズルザ、ヴェラの役はアンナ・ヴェクスシャルあるいはロシーネ(レフラー)・フンク、魔法使いディルフェングをペーター・ホルム、バルカの役をジョヴァンニ・バティスタ・ツェッティ、ルルの役をゲオー・ツィンクである(注215)。アナセン夫人がペリフェリーメを、新人イダ・ヴルフがヴェラを歌ったがその他は提案通り初日を行った。これは次のシーズン以前には上演されなかった。1824年10月29日の王妃の誕生日音楽の多くの箇所の省略、台本のカット、良くない演出などのためゲネプロと見なされ、本来の初日は11月6日の2回目の公演日となった。オーアスコーによるとこの上演は歌は良かったがルル、シディ、ディルフェングについては役にはまっていなかった。それに対してツェッティはバルカの役から非常に独創的なものを引き出していた。彼は一晩中完全にこびとに変身し、彼自身によってうまく詰め物をして作られたドライス自転車でくるくる回ることが出来た。衣装や装飾品は古いものでギュンテルベアの舞台効果の知識不足が殆ど不可能な舞台転換を書かせてしまい、その上演は観客が笑い出してしまうほど非常に荒唐無稽なものになってしまった。しかし、クーラウの音楽が全体を助け、その作品は見事に聴衆を魅了し驚くべき喝采を博した。「最初は祝祭公演であったのでこの作品の運命が決定される2度目の公演のあと反対意見なしに済まされることはなかった。ある楽壇の一派はこの旋律の豊かさと強力な効果はクーラウの音楽をロッシーニ流と見なした。(注216)」2度目の公演では「ブラヴォーの叫びと口笛が入り交じりゴングが鳴らされなくてはならなかった(注217)。例えば『魔法の竪琴』の公演の時のような真のスキャンダルまでにはならなかった。なお、1ヶ月後の4回目の公演からは『ルル』は「満員」のうちに行われるようになったと伝えられている(注218)。
 1825年1月29日に初演が行われたワイセの新しいオペラ『フロリベラ』(台本はボイエ)を『ルル』に対抗させて演奏をさせようという試みは全く実現せずに終わった。互いに尊敬し、素晴らしいと思っていた当時の偉大な作曲家ワイセとクーラウは政治的な関心もなくそれに政治的活動に加わることもないため無意味な文学的、音楽的論争に身を投じる小市民的なコペンハーゲンの多かれ少なかれ熱狂的な支持者たちによって引き起こされる対比を2人とも迷惑なことと思っていたことだろう。オーアスコーはこの現象を次のように説明している。「クーラウは非常に狭い交際範囲の中で暮らしていた。彼の劇場音楽は演奏される前に話題になることはあまりなかった。そのため聴衆は前評判から作品の何を褒めたらよいのかという指示を得ないまま直接に印象を得てそれに従って判断した。非常に人から求められる社交的な人物で機知に富んだワイセは、その反対に彼の周りに大勢の音楽に詳しい者たちばかりでなく、彼に接することにより偉い人になったような気のする人たちも大勢集まった。そして後者の人たちは彼の意志に全く反して徒党を組み彼のスタイルでない音楽に対して反対を表明することによってより高い趣味を持っているのだという振りをするだけでなく、この天才と個人的に付き合うことによって自分を重要な人物としようとした。それゆえワイセが自ら作曲したと聞くや否や彼の演奏した一部分を大げさに取り上げたのだからこれがまだ出来上がっていない巨匠の傑作となってしまった。これは『フロリベラ』の時に最も典型的に現れた。『フロリベラ』はクーラウの『ルル』のすぐ後に続いたため人々の偏見は異なった性格を持つ2つの天才的な作品はその価値によって互いに聴衆の喝采を得るのが正当なのだということを認め合うことが出来なかったのだ。すでに上演されるだいぶ前から『フロリベラ』は深淵さ、独創性、性格付けにおいて『ルル』よりもはるかに優れ、そしてクーラウがその中に精神的なものを加えることによってなお一層危険なものにしてしまったような現代のロッシーニの悪趣味に対しても古典的な対照的な作品になると言うことが決定されていた。同様に一方的な見方は『フロリベラ』の2度目の上演においてそれぞれのナンバーばかりでなく、作曲家自身が賛同を引き起こすなど考えもしていない箇所で嵐のような激しい拍手で賞賛の声を上げ、聴衆がそれに従わなくてはならないような判断を下した。音頭取りがやや少なかった3回目の上演では聴衆はかなり冷静であった。そして何回かの入りの悪い上演後、この作品は主に台本の退屈さのため9回目から演目から外された。一方『ルル』は相変わらず満員で14年後にその上演に耐えられるような力量のある芸術家がいなくなったという理由でやっとレパートリーから消えた(注219)。『ルル』は32回の上演を数え、1838年にズルザがシディの役をやめたので上演演目から外された(注220)。
 クーラウの経済状態は彼が予想していたようにこのオペラを完成し終えた時、かってないほど悪くなっていた。1000リグスダーラーの昇給と賞与の請願に対して彼は賞与(300リグスダーラー)だけしか得られなかった(注221)。300リグスダーラーで劇場の作曲家(同時に彼は宮廷作曲家として300リグスダーラーを得る(注222))となることをその後に請願するよう劇場当局(この臨時の支払いは毎年必ずというものでなくクーラウが劇場に提出した作品に適合されるという提案)も、ハウク(300リグスダーラーの定額に150リグスダーラーの賞与、及び1年おきに劇場に提出すべき義務のある各オペラに対して300リグスダーラーを、すなわち年俸600リグスダーラーという提案(注223))も勧めた。しかし芸術に対して特に理解があったわけでないフレゼリク6世がクーラウは彼の年俸に提出されたオペラの賞与が付け加えられるだけであると決定したことで終わった(注224)。

スコーネとレーエンボーへの小旅行---ウイーンへの(4度目のドイツ旅行)とベートーヴェンとの面会---『ウイリアム・シェイクスピア』(1825年〜1826年)

 クーラウはいつも貴族たちの城や領地を彼のために開放させる一種の能力を持っていて、多くの貴族の友人の家に訪れているが比較的短期間の訪問の内で1824年の12月かあるいは1825年の初めに(注225)肖像画家ペール・リンドベリと一緒にスエーデンのエリック・フォン・ノルケン男爵の領地のスコーネにあるヨールベルガに14日滞在したことや、またその年(1825年)再度レーエンボーのレーエンスキョル男爵の客人となり、その時は彼の弟子でヴァイオリン奏者のルートヴィヒ・モールと今やピアニストとなった甥のゲオルク・クーラウが同道したことが知られている。その間音楽が奏せられたその滞在(注226)は、クーラウが6月15日にドイツとオーストリアの旅行の許可を得たのだが(注227)、そのドイツ、オーストリアの旅行よりも前の春か夏であったに違いない。すでにその2週間後、彼は弟子でスエーデン人の宮廷事務官兼オルガニストのベリステーンと一緒にリューベック経由の7月1日発の蒸気船「プリンセス・ヴィルヘルミーネ」の乗客となった(注228)。
 クーラウがウイーン(彼の生涯で2度目)に到着する7月27日以前にドイツのどの都市に滞在したかは全く知られていない(注229)。彼にとって人生の偉大な瞬間の一つとなったに違いないここでの一番重要な出来事は9月2日に行われたべートーヴェンとの有名な面会である。8月の初めにべートーヴェンの甥、カールはこう書いている。「クーラウはウイーンに居ます。---デンマークの宮廷楽長です。(ママ!)---彼はかの地で大変好まれた『盗賊の城』というオペラを書きました。(注230)」面会自体はイグナツ・フォン・ザイフリートによれば次のようにして実現した。「デンマーク王国楽団長(!)クーラウはべートーヴェンと個人的知己を得ずしてウイーンを離れたくなかったので(楽譜出版社の)ハスリンガー氏はべートーヴェンが避暑をしているバーデンに向けて小グループを仕立てた。ゼルナー氏(我が国のコンセルヴァトワールの教授)、宮廷鍵盤楽器製作者コンラッド・グラーフ、その他べートーヴェンの親友(ヴァイオリニストの)ホルツ氏等が尊敬すべき客人に敬意を表した一行の者たちであった。」これは正に男の旅となり山を徘徊し、昼はヘレネ峡谷でもてなしを受け、ジラリー・シャンパンとヴォスラウアー・ワインでべートーヴェンの家での終曲となった。そこでは「その愛想の良い主人は上機嫌で彼もその友人たちも無礼講で心ゆくまで楽しんだ。クーラウは即興でバッハの名前によるカノンを書いた。そしてべートーヴェンはこの愉快な一日の記念に後述の即興曲を献呈した。(注231)」それは「Kühl, nicht lau」(冷やしなさい、生ぬるくなく)という歌詞の三声の酒飲みカノンでクーラウのようにバッハの名前によっていた。このようにザイフリートは溌剌とロマンティックな描写をしている。この本は面会が行われた3年後、べートーヴェンの死の1年後に出版された。9月2日の日付の会話帳にあることと照らし合わせてみるとその他に3人が登場している。すなわち役人で楽友協会の会員であるフェルディナンド・ピリンガー、ボヘミアのピアニスト兼作曲家のヴェンツェル・W・ヴェルフェル、それにフィッシャー氏(もしかしたらヴァイオリニストで楽友協会の会員であるヨハン・ネポムク・フィッシャーかもしれない。(注232))という人である。会話は(注233)ウイーンの地域的なことが話題となっていて、多かれ少なかれ音楽に関するものである。すなわち音楽界の状況、二、三の当時の作曲家たち(チェルニー、ルドルフ大公)、ほかに政治に関するもの、出版社の仕事、新刊の作品も話題となった。そして特にヘレネ峡谷での昼食時に書かれたもので占められている。それらはしばしば語呂合わせのようなもので---そこに居合わせた人たちの名前をもとにした冗談などである。二、三の箇所にはエロティックな意味のことが書かれておりそれらは当時の「礼節をわきまえている」限界を超えてしまったと言われるほどである。これらのすごい言葉を書いたのはハスリンガー、ホルツ、ピリンガーである。(あるいはペンが書いたと言うべきか!)。その会話帳の後の方に多分彼らがべートーヴェンの家に戻ってからだろうが、ヴェンツェル・ヴェルフェルが書いたものがある。彼のまじめな発言は他の人々と明らかに一線を画している。社交性におけるクーラウの関与は目立ってささやかなものである。それは彼の本性の内気さから来たものなのか、あるいは他の人たちのようにはその土地の事情を知らなかったからかもしれない。彼は見たところこう引用されているだけだ。(ハスリンガーによって書かれた)すなわち、「コペンハーゲンでは(べートーヴェンの)『(橄欖山の)キリスト』を演奏します。---ハ調のミサ---非常に素晴らしい。」また「今年の冬『フィデリオ』がコペンハーゲンで上演されます。(注234)」その少し後に彼の1819年の音楽の絵謎、前述のバッハの名前によるカノンが出ている(注235)。だから即興で作曲されたものではない。その下にべートーヴェンのカノン「Kühl, nicht lau」がありべートーヴェンはこれを改作したものを翌日カール・ホルツを通じて手紙を添えてクーラウに贈っている。

1825年9月3日 バーデンにて
 昨日は私もシャンパンがひどく頭にのぼり、そのため又しても私の創作力が促進されると言うよりは抑制されると言う事態になってしまったことを告白しなければなりません。いつもならそのようなことは簡単にできるというのに、昨日は何を書いたか全く覚えていないほどですから。
貴方を信服している者を時々思い出してください。 
べートーヴェン 自筆(注236)

 ウイーンにおけるクーラウのその後は、それ以後の会話帳に所々に現れる記述から知ることが出来る。その賑やかな会談の二日後、甥は書いている。「明日クーラウはグラーフ[コンラート・グラーフ]と一緒に再びやって来るかもしれません。」あるいはクーラウに対するあてこすりかもしれないが「彼は昨日他の友人たちとここへやって来ました。必ず来ると言っていました。彼は貴方がいつ食事をするのか尋ねました。しかし彼は早めに来ると言っていました。(注237)」しかし会話帳によればこのようなことは起こらなかったようである。同じ日(9月4日)べートーヴェンはクーラウとも知り合いの出版業者モーリッツ(モーリス)・シュレジンガーの訪問を受けている。彼はクーラウから2日前の集まりや前述のカノンのことを聞いていた。シュレジンガーは次のように----クーラウはべートーヴェンの「Kühl, nicht lau」の返事としてバッハの名前によるカノンをもう1つ書いた。べートーヴェンは翌日それを受け取るだろう。クーラウはこの3つのカノン全部を、すなわちべートーヴェンのもの、べートーヴェンして書かしめたもの(クーラウの絵謎)と返事(クーラウの新しいカノン)をもしべートーヴェンの許可があればシュレジンガーを通して「ベルリン音楽新聞」に掲載したい---述べている(注238)。
 その後の記述は、クーラウがオーストリアのワインをおいしいと言ってぐいぐい飲んだことや、彼の仕事を速く仕上げる能力を多かれ少なかれ暗黙の内に示しているように思われる。シュレジンガーはクーラウが9月2日のパーティからの帰り道のことを次のように言ったと書いている。「私はどうやって家に帰り、ベッドに潜り込んだか覚えていません。」(その後に[E.T.?]ホフマンの一日に6〜8本のシャンパンを飲む信じられないほどの飲みっぷりのことが出ている)(注239)。またシュレジンガーがやや後で「クーラウは飲めるたちですね。そうでしょう!。---チクロップ---目が鼻の近くにある。気がつきませんでしたか?」と言っているが、その特徴説明を「彼は本当に沢山飲んだに違いない。なぜなら彼にはそうできるのだ。」(注240)と書いているのは目を引く。9月8日にホルツは、クーラウはある出版社から(ハスリンガーあるいはシュレジンガー?)6曲のフルート二重奏曲で80#を受け取った(注241)、と書いている。そしてもう少し先のところに「クーラウは二度とも家にいませんでした。私はそのカノン「Kühl, nicht lau」をトビアス(ハスリンガー)に渡しておきました。なぜならクーラウはしばしば彼のところに行くからです。」又「クーラウは6曲のフルート二重奏曲を6日間で書き殴りました。(注242)」と書いている。
 もしクーラウが9月9日の午後、ウイーンの旅館「zum wilden Mann」で行われた催しに居合わせたとしたら、それはその旅行の音楽上のクライマックスであったに違いない。シュレジンガーが当時べートーヴェンの家に何度も訪問したのは、第1にパリにおける近作のカルテットと彼の室内楽全集の出版にあった。彼は宿泊していたその旅館でべートーヴェンのイ短調のカルテット(作品132)をシュパンツィッヒ・カルテットと一緒に内々の初演を行うことを企画していた。そこにはベートーヴェンの他にいろいろな人を招待し、その中には英国人の指揮者兼音楽会主催者のG.T.スマートが居た。しばしば解読するのが難しい会話帳から見られる限りはクーラウも又この場に居合わせている。しかし、このカルテットを聴いたあと明らかにこのパーティから立ち去ったらしい。いずれにせよ˛シュレジンガーは初演のあとの打ち上げの会話の中で「クーラウは飲み過ぎをさますためプラーターに2時間の散歩に出かけました。(注243)」と書いている。しかし、クーラウの名前はその2日後の9月11日に同じ場所でもう一度行われた、そのあと夕食付きの内々の演奏会には現れていない。そこではベートーヴェンの2曲のピアノ・トリオ(作品70と作品97から1曲ずつ)とイ短調のカルテットが演奏された(注244)。1825年9月29日ウイーンの日付のあるシュレジンガーに宛てたカノン「Guter Wein」(DF181)(注245)が「想い出帳」に書かれているのがウイーンにおけるクーラウの最後の足跡である。彼はシュレジンガーと一緒にその翌日に出発したのであろう(注246)。
 10月前半のある日、アブラハムスはライプツィッヒの路上で兄のアンドレアスの所を訪問中であったクーラウに会っている(注247)。クーラウは10月25日にリューベックを発ったに違いない。なぜなら10月26日の10時半着の蒸気船「プリンセス・ヴィルヘルミーネ」でコペンハーゲンに到着しているからである(注248)。
 帰国後すぐに、彼は1826年1月28日の国王の誕生日に上演するボイエのロマン的な演劇『ウイリアム・シェイクスピア』の付帯音楽を作曲するという課題を与えられた。(彼がドイツ旅行に出発する前に劇場から送られていたボイエのオペラ台本『フーゴとアーデルハイト』は、だからしばらく保留にして。)ボイエは初めは『ウイリアム・シェイクスピア』の音楽は、シャルが作曲するものと考えていた。なぜならそれについて彼は「これは殆ど合唱とバレエ音楽から成るべきものだ」と言っていたからである(注249)。しかし、劇場当局はすでに公にクーラウに決定していた。クーラウも同じくその音楽を作曲し提出することを同意していたし、彼が11月22日にその作品を全部受け取ったが、彼はたまたま作品を知っておりその受け取る前に最初の合唱曲に着手していた(注250)。その劇の最後の幕で若いウイリアム・シェイクスピアは妖精たちが『マクベス』の中のクライマックスをパントマイムで演じることによって詩人としての自覚に目覚めることとなる。これについてボイエは11月の初めに劇場当局に書いている。「以下に述べることは作曲家が知っていることが必要なことです。パントマイムのシーンだけで、私は第1場を全部構成しました。それに対して他の2つの場は物語だけです。そのことはもし全部作曲するだけの時間があれば作曲者の方にも分かっていただけるでしょうし、もし国王が誕生日にこのようなパントマイムを見たいと言うことになれば劇場当局の方にも分かっていただけるでしょう。作曲者・当局のどなたかがこのシーンに反対なさるのでしたら私は他のものを考えます。例えばパルナッソスのアポロと9人の女神、またはそれと似たようなもの、これらは詩的には劣るとは言えW.シェイクスピアと同じ効果を引き起こすでしょう。(注251)」クーラウはこのパントマイムでやる考えに賛同しなかった。そしてボイエに対して次のように理由を述べている。「第4幕のパントマイムのシーンの着想は大変詩的であると思いたい。しかしながら私は確信しますが音楽を付けようとするいかなる作曲家もそれによって笑い者にされてしまいます。しかもそれが15分以上かかってはいけないとなればなおさらです。大きな題材に相応しい音楽は少なくとも1時間は必要です。それ故私はあえて申し上げます。すなわちあなたがパントマイムに関する考えを、たとえそれが短くなったにせよ持ち続けるなら私はこの作品に音楽を付けることはできません。それは私にとって残念なことです。なぜなら私は最初にして長大な歌のナンバー[ナンバー1、すなわち踊り付きの合唱]をすでに作曲してしまったからです。そして(パントマイムがなければ)決められた時期までに完成するのですが---。私はあなたがパントマイムの代わりに何か他の美しいものを見つけ出すことに成功することを望んでおりますので(それで音楽のナンバー数が増大しないで)私はこの作曲を進めます。どうか至急ご返事下さい。(注252)」このようにしてパントマイムは取りやめにされ、アポロンと女神たちのシーンによって補われた(注253)。しかしボイエはこのパントマイムの考えを捨て去ることが出来ず、1826年1月に劇場当局に次のように提案をしている。「このパントマイムを入れる考えを思いつきました。それはクーラウが何かバレエ音楽を書かずとも、眠りを誘う合唱(ナンバー6の『小川よ、歌え』)のいくつかの変奏曲をそれに当てさえすれば良いのです。そしてそれは楽器だけで演奏され、『マクベス』のシーンと同じ長さだけ続きます。それにはつまり何の意図もなくただシェイクスピアの眠りを続けさせるためです。この器楽の変奏曲はその際静かに非常に弱い音で演奏されなければならず、背後の作り付け舞台で進行していることを邪魔してはなりません。私の考えによれば生じ得るただ1つの難しさはバレエダンサーが音楽によって混乱してしまうのではないかということです(注254)。」この提案はパントマイムの最終的な解決となった。
 『ウイリアム・シェイクスピア』は国王の誕生日に上演されるには至らなかった。しかし初演は1826年3月28日に行われた。N.P.ニールセンが主役を演じ、彼の生き生きした動作とクーラウの情緒あふれる音楽は大成功を収めた(注255)。それは1859年を最後に計17回上演された。

リュンビュー(1826〜1832年)
クーラウの弟子と知人
『ウイリアム・シェイクスピア』の初日の一週間後の1826年4月6日、クーラウは彼の家族と一緒にリュンビューに引っ越した(注256)。つまり、彼の歳老いた両親と多分兄の息子がいたが、しかしそのすぐあと彼のところから引っ越した(注257) 。気むずかしい、くる病の妹マグダレーネは1825年頃から音楽と言語の先生としてオールボーで仕事をしていた(注258)。前述したいとこについてはその後何も情報がないが、彼もまた家族のもとから引っ越したものと思われる。
 クーラウがノーアブローからもっと田舎に引っ越したのは、確かに住むには安かったと言うこともあるが、大の自然愛好家である彼の切なる願いからでもあった。またここで彼はデンマークの上流階級の上品な社交パーティーから逃れ、作曲するための静けさを得ることができた。「私は今年の冬もリュンビューに留まります。ここの田舎の静けさは私に沢山の仕事をはかどらせてくれます。」と彼自身が言っている(注259)。彼の作品の大部分はドイツの出版社に送られた。すなわちホフマイスター、クランツ、ベーメ、ジムロック、プロプスト、ショットなどである。しかし、一部は同様にデンマークの出版社にも送られている。ローセやミレである。彼が1818年に始めたゲネラルバスのグループ・レッスンはその後なにも聞かれていない。いずれにせよリュンビューに引っ越した後はやがて全く打ち切られた。プライベート・レッスンの中止も1819年と1822年の間に行われたが、彼にとっても大いに負担軽減となった(注260)。それについて彼自身こう言っている。「私には教えると言うことほどいやなものはない。それは私の音楽上の考えを非常に邪魔をする」(注261)。しかし、クーラウは何人かの作曲の弟子を持っていた。---晩年にも---。しかし彼らが非常に音楽的か、できたら芸術的創作欲旺盛であるときにしか興味を持たなかった。それは彼のレッスンを受けたということを確実に我々が知っている人物については次のメモからわかる。可能な限り当時彼が生徒として受け入れた時点に従って引用すると
ニコライ・ゲルソン(1802〜1865)商人、ピアニスト 遅くとも1815年からピアノの弟子。(36ページ参照)
P.O.ブロンステッド(1780〜1842)考古学者、1818年クーラウのゲネラルバスのレッスンに出席(注262)。
アントン・カイパー(1796〜1861)軍人、理論、作曲のレッスン 遅くとも1818年から(注263)、クーラウの助手、クーラウのいくつかの曲を編曲したり、オーケストレーションをしている。又、多くの未出版の楽譜を筆写している(注264)。
N.P.イエンセン(1802〜1846)盲目のフルーティスト、作曲家、1820年頃から1826年まで作曲のレッスン(注265)。
カール・シュヴァルツ(1803〜1834)スェーデンのピアニスト。作曲を遅くとも1822年から、ピアノ(?)あるいは作曲のレッスン(注266)。
ゲオルク・フリードリヒ・Kuhlau(1810〜1878)クーラウの兄の息子。ピアニスト。1822年から1826年、ピアノと理論のレッスン。(48ページ、脚注257参照)
I.F.ブレダル(1800〜1864)ヴィオラ奏者、作曲家。クーラウの家で2、3の勉強(作曲)(注267)。
J.L.モール(1800〜1884)ヴァイオリニスト、1824年理論のレッスン(ホーとゲオルク・Fr.クーラウと一緒に)後にピアノのレッスン(注268)。
ホー(?)宮廷音楽家、1824年 理論のレッスン。
C.リューダース(1803〜1856)ピアニスト、作曲家(注269)。
J.F.フローリッヒ(1806〜1860)ヴァイオリニスト、作曲家。 作曲のレッスン(注270)。
J.C.ゲバウアー(1808〜1884)オルガニスト、作曲家。 1826年から1828年 理論及び作曲のレッスン(注271)。
J.O.E.ホアネマン(1809〜1870)作曲家(注272)。
H.S.レーエンスキョル(1815〜1898)ピアニスト、作曲家(『シルフィード』)(注273)。
B.クールレンダー(1815〜1898)ピアニスト、作曲家(注274)。
C.A.C.ユング(1815〜1883)オルガニスト(注275)。

クーラウのピアノの弟子として次に挙げる名前は専門家ではない。
絹と衣服商 ピネウス・レヴィソン(1792〜1866)(注276)。
皇女カロリーネ(1793〜1881)彼女は作品75〜77を献呈されている(注277)。
スェーデンの宮廷事務次官でオルガニストのヨハン・ベアステーン(1799〜1852)(注278)。
ニコリーネ・ヴァレンティーナ(1802〜1893)1819年から1820年、1820年4月30日の科学協会の演奏会でf mollのコンチェルトを弾いた(注279)。
最後に挙げるべき人はオルガニスト及び作曲家のハンス・マティソン-ハンセン(1807〜1890)1825年頃にクーラウから作曲をするように勧められた。しかしクーラウはすでに音楽家になるには遅すぎると思い、この道で生活することはやめるように忠告した(注280)。それからヴァイオリニスト兼作曲家のH.パウリ(1810〜1891)はクーラウの作品が公開の場で演奏される前にリュンビューのクーラウの家にやってきて彼の作品を試奏した1人である(注281)。

 リュンビューに移ってからすぐ後にクーラウは1825年から1830年まで夏の間、卸売り商人ミュッフェルマンの息子の家庭教師としてこの商人の屋敷「鳥の歌」(注282)に住んでいた詩人クリスチャン・ヴィンターと出会った。彼らの交際を1826年8月ヴィンターは書いている。「クーラウは当地に住んでいます。私は一日おきに彼を訪問しています。私たちは音楽について話し、タバコを吸い、熱いグロッグ酒を飲みます。彼は本当に素晴らしい男です!----最近彼は数多くの小品を作曲しています。1」無伴奏の8〜9曲からなる四声の歌、2巻。その最初の巻を彼は学生連盟に献呈しました。2」ピアノ伴奏付きの歌曲集。彼は私のためにそれらを全て演奏してくれました。ピアノで弾かれた四声の歌やあるいはクーラウの生の声で歌われましたが分かる限りはとても素晴らしいと思いました。彼をまだ知る前3人の友人を連れて彼が作曲した歌のいくつかを歌うためだけに彼のところへ行きました。それらは彼自身まだ聞いたことが無く、これは彼を非常に喜ばせたように見えました」(注283)。
 夏になってコペンハーゲンの知り合いの家族が沢山田舎にやってくると、クーラウはワイン商人ウォーエペーターセンの別荘「アルベルティーネの楽しみ」(注284)や、画家のエルネスト・マイヤーに会ったゲントフテの卸売り商人トリアーの家(注285)、オルガニストのイエーアースボーのユルスレウの家(注286)、エルメルンスフーセトにあるヴァイオリニストのヴェクスシャルと彼の妻で女優のアンナ・ブレノエの家などを訪ねた。また彼は皇太子クリスチャン(8世)の無憂宮でも演奏した。彼はそこに参上するときは非常に機嫌が悪かったが家に帰るときは喜んで帰ってきた(注287)。彼がヴェクスシャルの家に現れたときのことをハイベア夫人はこう言っている。「作曲家クーラウも私はここで初めて会いました。彼は私に良い印象を与えました。私は彼が片目であるということを先ず受け入れたので、この一つの目は非常に美しく、整った顔立ちに2つ揃っていないことは残念なことに思われました。彼は感じの良い率直な人で気立ての良い性質を持っていましたから私は彼と冗談を言いあったほどです。彼もヴェクスシャルも夜遅くまで雑談に加わっていました。クーラウはワイン好きで知られています。話をしながら彼らは飲んでいて最後にクーラウが帰ろうと立ち上がったとき、この音楽家がいつもよりかなり出来上がっているのが分かりました。ヴェクスシャルもそれに気が付いてこう言いました。「行こう。家まで送っていくよ。夜は美しい。」---心配して私は彼らを見送りました。彼らはふらふらしながら当時かなり急な坂になっていた道を上がって行くとき、クーラウにとって連れに合わせてゆくことがどんなに難しかったかのように見えました。他の人たちはそれを笑っていました。私は自分の家で同じようなことをいつも見ていたので、おかしいとばかり思うことはできませんでした。その翌日この天才クーラウが再びやって来ました。部屋に入ってきてヴェクスシャル夫人のところに行き彼女の手に接吻をし歌いました。

「〜一度も酔っぱらったことがないものは立派な男じゃない〜」(注288)。
クーラウの酒好きは歳と共に弱まることはなかった。何人かの人が、例えば彼の親友で、家を探すなど彼の生活の実際的な面の一から全てを面倒を見ていた鍵盤楽器製造者、G.D.ハスハーゲンによってリュンビューの彼の住まいの地下室に備えてもらった「Oxehoued」の赤ワイン(240リットルの樽入り)のことについて物語るのである(注289)。

『フーゴとアーデルハイド』----スェーデンとノルウェイへの旅行(1827〜1828)

 1827年初め、再び義務的な仕事の話が出てきた。ボイエから後押しをされて劇場当局はクーラウが1年前に受け取り、『ウイリアム・シェイクスピア』の仕事のため保留にしておかれたボイエのジングシュピール『フーゴとアーデルハイド』の上演を行うことを考えた。しかし彼はこのオペラを作曲するには「王立劇場当局が一定の謝礼(たった600リグスダーラーであろうとも)を保証してくれるなら、そしてスコアを提出する際に支払ってくれるなら」受け入れると言っているが、それ以外のことでは「心を打ち込んで仕事したい」(注290)と思っていた。劇場当局の調整にしがたい国王の決議により3月13日彼の条件は受け入れられ(注291)、クーラウはそのオペラを書き始めた。彼はその後の7ヶ月その仕事に携わった。10月10日彼は劇場の税務局長官J.コリンに宛て書いている。「今週の金曜日か土曜日に(10月12日あるいは13日)『フーゴとアーデルハイド』の序曲を写譜屋に手渡すため町に行きます。このオペラの私の作曲はそれで全部完成します。」そして600リグスダーラーを火曜日以前に支払ってくれるよう頼んでいる。「何故なら目下私は正に差し迫ってお金に困っているからです。次の火曜日には他にもありますがとりあえず大家さんに支払わなければなりません」(注292)。
 そもそもクーラウの最後の正歌劇『フーゴとアーデルハイド』の初日は1827年10月29日「誕生日公演演目」として行われた(注293)。それは不成功であった。たった5回しか上演されなかった。あらすじは次のようなものである。ある騎士がある商人の娘と彼女の父の家で密会した後、彼女の名誉を傷つけないために、あえて泥棒として捕まえられる。「ワイセはこの作品を作曲したいとは思っていなかった。何故なら泥棒だと思われるような振る舞いのできるような人間の微妙な感情に音楽を付けることは彼の意に反することであったからである。」クーラウはこの作品の作曲を引き受ける気になった。「何故ならこの作品の中に美しくなりうる個所や力を投入することができる場面があったからである」。だがこの場面は彼の音楽を大変損なうことになった。というのはこのような身分の高いものを仲間に持つことで犯罪人たちが嘲りや歓声を挙げるなか騎士が牢獄につながれる第2幕のフィナーレの場面なのだが、クーラウがこの感動的なシーンを作ろうとしたその天才的な力は彼のもくろみに反しておぞましい印象を与えた。観衆は鉄格子の間から覗いている囚人たちのどよめくコーラスの中に野蛮な無法状態が徹底的に表現されていることに感嘆した。しかし、それは拍手の代わりに恐怖を引き起こしただけであった。この見せ場で引き起こされた不快な感情はヴェクスシャル夫人の魅力的な演技と説き語りの歌にも関わらず第3幕の美しさを聴衆に味合わせることをさせなかった。人々はこのような汚らわしいものが祝祭の演目として舞台にのせられることに驚き、観客の受け入れ方は非常に冷たいものとなった。」(注294)。
 その翌年の初め、クーラウは再び外国旅行を計画し、1828年4月18日に「ノルウェーへの短い旅行のため長くても3ヶ月の休暇」を願い出ている(注295)。三日後にその許可を得て(注296)、5月2日に「宮廷音楽家クーラウと楽器制作者のハスハーゲンはイェーテボリに向けてノルウェーの蒸気船『プリンス・カール』で出発した」(注297)。この旅行をすることになったのはイェーテボリのレオーニ・ヤコブソン氏という人の招待であったように思われる。彼の娘にクーラウはスェーデン民謡『そして小さなカーリンは役に立った』によるピアノ変奏曲、作品91を献呈している。彼が以前娘に宛てた手紙の中でさりげなくほのめかしていた招待で、悪いはずはなかった。「私は、あなたが私に献呈することをお許し下さった同封の作品を喜びを持ってやっとお送りすることができることになりました。この変奏曲の演奏が貴女や貴女のお父様に少しでも楽しんで頂けたらと思います。そしていつか貴女がこの曲を素晴らしく演奏するのを聴く喜びを味わえたらと思います。そうすればこの献呈を行わしめた私の望みも満たされることになります。」(注298)。
 イェーテボリでクーラウはマヌソン家にも訪問している。後に彼はそこの娘ベティにスェーデン民謡によるピアノ・ファンタジー作品93を捧げている(注299)。彼女はソフィー・ヤコブセンと同様、クーラウが勿論再会したであろうカール・シュヴァルツのピアノの弟子であった。彼を通してこの家族と知り合いになったのだろう。
 しかしこのスェーデンとノルウェーの旅行はクーラウの再び行われることのない最後の演奏旅行としても考えられていた。彼は5月13日、「ブロムの大ホール」で最初の演奏会を行い、彼のピアノ・コンチェルト(恐らくポピュラーになったf-moll)、いくつかのピアノの変奏曲(次の演奏会のように、「Liten Karin」ではないだろうか)、あるカルテットのピアノパート(好んでいたA-Durにちがいない)、最後に彼のスェーデンの歌と踊りによるピアノ変奏曲(作品25)(注300)、を演奏した。4日後彼はハスハーゲンと一緒にノルウェーに向かう。そこに彼は「一定の取り決め」に従い18日より前に行ってなくてはならないのだ(注301)。その滞在について全く何も知られていない。クリスチャニアで演奏会をしたかも知れない(?)。(もしかしたらイェーテボリで行ったものを繰り返したか)そして期間は短かった。何故なら出発時の予定通り彼らは5月28日、イェーテボリに戻っている(注302)。そこでクーラウは「多くの音楽愛好家が表明した願望に答えるため、旅立つ前にもう一度演奏会を行うため(注303)」6月3日「ブロム大ホール」で最後の演奏会、そこでは彼は再度、あるピアノ・カルテット、『小さなカーリン』による変奏曲、ブラウンステイン氏という人と一緒に「ピアノ・ソナタ」を(注304)、最後にビアンキのカンツォネッタによる彼の技巧的な変奏曲(作品54)を演奏した(注305)。6月5日友人である二人はイェーテボリからコペンハーゲン着の『プリンス・カール』の乗客の中にいた(注306)。この小旅行はわずか1ヶ月で終わった。

『妖精の丘』----プロフェッサーの肩書き(1828年)

 クーラウの帰国する一週間前----彼が全く知らないうちに----彼の生涯で最大の成功への種が蒔かれた。すなわちフレデリック4世の皇女ヴィルヘルミーネと皇太子フレデリック(7世)の来るべき結婚式のため「これに相応しい華やかな作品となるよう、しかしお祭り騒ぎとなるようなものでなく」歌と前口上があり、国王の御前で行われるべきもの望むという王の勅令が5月13日劇場当局に送られた。当局は二、三日後にエーレンスレーヤー、ハイベア、ボイエに3週間以内にそれに相応しい草案を提出するよう要請した。ボイエは病気を理由に辞退したが歌とプロローグを書いた。そしてエーレンスレーヤーは6月12日、サクソーを題材とした彼自身の同名のロマンスより作られたジングシュピール『ヴェールをつけたシグリド』のテキストの原案を提出した。この作品は当局の賛辞を得たが、結果はハイベアの方が選ばれた。『妖精の丘』の彼のスケッチは期限前日の6月22日に提出された。しかし、6月10日の時点で既に彼が6月2日に提出を要請された作品の原案を更に推し進めている。この原案の発案者でもあるコリン宛の手紙の中に次のように述べている。「閣下は先日、よく知られているか又は少なくとも古いメロディーを編曲してはどうかとおっしゃいました。この言葉が私の考えに根を下ろしヴォードヴィル(別の名前で呼ばれるとしても)こそ国民的祝祭劇に相応しいと思うにつれますますそう考えるようになりました。このテーマは性質上私たちの古い戦いの歌のメロディを使うことにより高められますから、やはりそうすべきでしょう。そうしたメロディの最も美しいものを5つか6つ選び、全体の音楽の元にしなければなりません。クロッシングの曲の中には、例えば古いスタイルのロマンスがあり、ある程度このやや一本調子なものは打ち破られたり別の音楽で活気づけられたりしなければなりません。しかし基調とあまりにも対比するものであってはならず音楽的な統一を保たれる程度に留めておくべきです。基調に合わせて新しく作曲されたものがあちらこちらに置かれ全体はこの基調の中に留まります。こうして例えば1幕のために短い終曲が作曲され、私の計画によればこの作品は2幕から成り第1幕は終曲で終わり、第2幕は合唱及び---もしそれが相応しいものなら----結婚式に相応しい結びの二行詩で締めくくられるでしょう。」その後、あらすじのスケッチが続いている。コリンはハイベアにその作品のスケッチをまとめるように要請したにちがいない。それは6月22日に提出された。
 競争に勝ったのは彼のスケッチであるという最終的な連絡をハイベアは(私の知る限り)後になって(1ヶ月後?)初めて知った。というのは彼の書き込み用カレンダーによれば『妖精の丘』は7月30日に開始され劇場に送られたのは10月1日になってからである。途中でハイベアはこの素材は2幕物には大きすぎると分かり5幕を計画した。このことに王様はあまり長い上演になることを恐れて反対した。そして個人的に謁見を許された後、ハイベアはこの拡大が不可欠であると王様に納得させた。(注307)。
 しかし、クーラウがこの話に加わったのは何時のことだろうか?ハイベアがその作品を書き始めた時期を見る限りでは私が考えるには7月の末である。いずれにせよそれより遅いことはない。何故ならその1ヶ月後に彼はハイベアと一緒に第3幕に使われるメロディについて話し合っているからである。ということは第1幕と第2幕の音楽については既に出来上がったと言うことになる。(注308)。
 そして、何故クーラウが(作曲することになったか。)彼と一緒に仕事をすることはハイベアの個人的な要請であったのであろうか。クーラウは劇場のために作曲する番ではなかった。何故なら彼は1年前に『フーゴとアーデルハイド』を提出していたからである。しかし事は急を要していた。そしてクーラウは仕事の早い作曲家として知られていた。(75ページ参照)。又、彼はその頃彼のピアノ及びフルート音楽に多くのデンマークの、特にスェーデンの民謡を使っていた。それは正に『妖精の丘』の音楽の基礎を構成するものである。クーラウは学問的に古いメロディーを知っている人間ではなかったが、民謡は常に彼の心を大変とらえてきたのであった。経験豊かな劇音楽作曲家として彼はそれらを劇の中でいかに用いるべきかを充分理解していた。『妖精の丘』のメロディを選び練り上げることは作詞家と作曲家の一体となった共同作業の内に行われた。そしてその作業は台本自体が作られるものと並行して行われたにちがいない。ハイベアは10月なってやっと提出したのだからクーラウはそういうわけで他の時と違って(劇場音楽作品の『ルル』の時を見よ)すでに仕上がったテキストを目の前において作曲をしたわけではない。古いメロディだけでなく、唯一彼自身が作曲した狩人の合唱「素晴らしい夏の夜は」もテキスト無しで出来上がっていた。そのことはクーラウからハイベア宛の8月29日付けの手紙に書かれている。「狩人の合唱のメロディ、No.8とNo.10(第1稿ではNo.10)が下に書いてあります。それに合わせて快活な言葉、しかも2節か多くとも3節の、その他に高音に合わせて、できるならAの母音のあるものを希望します。私はこの韻律があなたの気に入ることを望みます。---二つのメロディからヴェクスシャル夫人のためのロマンスであなたのお気に召すものをお選びください。ローセンキレ氏のためのロマンスや、その他の事を含め出来るだけ早くご相談したいと思っています。何故なら私は休みを取らなければなりませんので」。この下に狩人の合唱が「Rechtemunter」とテンポ指定され五線に書かれている。そして、」軽快な弦の響き、喜びに満ちたリフレーン付きの合唱曲、等々」の注意書き指示は「ややゆっくり」とある。最初のものは「スベン・フェルディングがヘルシンボーに腰を下ろしている」の歌詞が付いている(注309)。これらのロマンスは使われなかった。喜劇的な人物ビョン・オルフセンにも又歌うものは与えられなかった。9月4日にクーラウはNo.8[=No.9「今や家臣の者は立ち去ろうとする」の農夫の合唱の歌詞を翌日に送ってほしい旨の手紙を出した。その下に書かれているメロディに「一番良いのは3節」と注意書きし4行の韻律図を付けた。その下には「何節で?」という質問が付いたNo.7[=No.8]のロマンスと踊りポラッカのテンポ(「海の底深くで」)のメロディが書かれている。(注310)。
 ハイベアが彼の書き終えた戯曲を劇場に提出した(10月1日)一週間前、クーラウも多分作曲し終えていたのだろうが---しかし序曲付きでなく(後述)---クーラウは彼の弟子で友人でもある陸軍中尉アントン・カイパーに1828年11月2日の王家の結婚式の際の小さな機会音楽「王立士官学校の歌」(DF140)のピアノ・スケッチを送った。彼が自分自身で「いつものように」オーケストレーションできるようにと。手紙は次のような興味深い言葉で終わっている。「クリスチャン王に関してあなたの忠告に従うつもりです」(注311)。これは当然さまざまな憶測を呼びうるが、恐らくメロディあるいは歌詞の当てはめ方などの細かな点についてだけ言っているのであろう。(カイパーはメロディにある程度従事しそれを使って2種類の曲を作った(注312)。しかしクーラウが最後の部分として序曲を作曲していることが分かっているのだから次のように問うことが許されるにちがいない。「序曲をクリスチャン王で締めくくるという考えを彼に与えたのはカイパーであるのか?」と。(注313)。
 『妖精の丘』を提出した後、ハイベアは何らかの理由により第2幕のロマンス「今あずまやは暗くなり」を割愛することを希望した。これを知ったクーラウは10月16日に速達便で興奮した手紙を書いている。「親愛なるドクター。後生ですからヴェクスシャル又はペートゲスのためのロマンスをあてがうことをご配慮くださることを切に願います。序曲は上手く仕上がったと信じています。しかし、そのロマンスを割愛したら2度現れるそのメロディは序曲の中で何の関係も無くなってしまいます。あなたがオーケストラを聴けばそれがお分かりになることと思います。来週、私は町に出ます。そして口頭で私の願いを繰り返したいと思っています」(注314)。周知のようにクーラウの側からのこのもっともな願いをハイベアは受け入れた。
 総括するとクーラウが『妖精の丘』を作曲したのはたった2ヶ月という記録的な時間である。すなわち7月の終わり(あるいは8月の初め)から10月の初めにかけてである。彼は自身でも「非常に急いで」作曲しなければならなかったと言っている(注315)。
 王室の結婚式は11月1日に行われた。その際クーラウは300リグスダーラーから600リグスダーラーの昇給と共にプロフェッサーに任命された。(注316)。
 この時期コペンハーゲンを湧かせていたお祭り気分の中で、1828年11月6日に『妖精の丘』の有名な初日が行われた。「劇場の正面にはアクロポリスの絨毯の製作者であり画家J.L.ルンによってエーレンスレーヤーの銘のある寺院へと作りかえられていた。何千というランプがともり、軍楽隊が寺院のバルコニーで演奏していた。又劇場内でも見るべきものが沢山あった。特に身分の高い順に剣と三角帽子のユニフォームを身につけた宮廷の人たちがいた。N.P.ニールセンがボイエの前口上と「スキョル王」を述べた後シャルによって指揮された序曲が響き渡った。そしてその作品の幕が上がり、現在まで988回の公演は(訳注:この著書の出版は1986年のことでありその後1000回を越している)王立劇場に最も大きな成功をもたらしたものとなった。配役は劇場の優れた俳優に当てられた。クリスチャン4世の役をリューエ、ヴァルケンドーフの役をフリュデンダール、エリサベト・ムンクの役をヴェクスシャル夫人、アルベルト・エベセンの役をN.P.ニールセン、ポール・フレミングの役をスターエ、母親カーアンの役をヴィンスロー夫人、アグネーテの役をペートゲス嬢、ビョルン・オルフセンの役をローセンキレ、狩人モーウンスの役をC.フォーソムがそれぞれ行った。バレエはP.フンクの振り付けであった」 (注317)。
 この作品の成功は大変なものであった。しかしクーラウにとっても当時の人々にとってもこの作品がデンマーク文化の1つの概念になるようなポピュラーなものになるとは想像もしなかった。『妖精の丘』は作曲自身が彼の劇作品で最高のものと考えていたであろう『ルル』よりも、ずっと高い評価を与えられた。この作品はクーラウにとっては、彼自身の言葉に従えば「この作品は劇場の収支にいかなる損失も与えることはないだろう」という位のものである。またクーラウは当時「時の人」になったように思われる。初日のすぐ後、彼はローセ社から1月か2月にすでに出版されたピアノ編曲版の予約購入の広告を出している(注318)。そして彼は皇太子フェルディナンドによって結婚式の際に行われるカンタータの作曲を要請された。そのため彼は全ての他の仕事を休まねばならなかった(注319)。その曲はフレデリック皇太子(7世)のもとで初演され、公には2日後、王立劇場におけるシボーニの音楽学校の演奏会で、ワイセのカンタータと一緒に演奏された(注320)。それは当然典型的なワイセ対クーラウの論争を巻き起こした。その際、クーラウに与する人は----当時としては初めてのことであったろうが-----もし一方の美に耳を傾けるとき、もう一方の美に対しても耳を閉じないように人々に促している(注321)。その上、クーラウはプロフェッサーに任命された後、C.F.ハンセン、エーレンスレーヤー、リューエ、トーヴァルセン、ワイセ、エーアステド兄弟等の名前と一緒にF.クローンの「優れたデンマークの科学者と芸術家の肖像」集の中に収められるほど上流のサークルで尊敬されるようになった(注322)。

劇場当局との関係------仕事の条件

 エーレンスレーヤーは長い間、オペラ台本の提供者として軽んじられていることを感じていた。1825年11月、彼は劇場に彼の喜劇「肖像画と胸像」を次のコメントを付けて送った。「作曲はクーラウにと提案します。何故なら彼は仕事が早いからです。そして彼にこの作品を与えれば冬の内に上演ができるにちがいありません。」(注323)。しかし、クーラウはその時期に『ウイリアム・シェイクスピア』の音楽を作曲していた。そして、この音楽を書き終えしょうとしたときにもエーレンスレーヤー側から申し出がなかったので何も実現しなかった(注324)。確かにクーラウはすぐさま舞台のための新しい仕事に手を付けることを欲しなかった。又その他にも保留となっているオペラ台本『フーゴとアーデルハイド』を抱えていた。3年後の1829年2月にエーレンスレーヤーは彼が作曲家として使いたいと思うとき、いつもボイエやハイベアの二の次にされる不満を述べ、次にクーラウが劇場のための作曲するときは彼の喜劇「アモールの復讐」を最初の作品とするようにとの希望を述べた(注325)。その翌年、クーラウが彼の新作「ダマスカスの三つ子の兄弟」に作曲したことでその願いの一部は満たされた。エーレンスレーヤーの前述の2つの作品を劇場当局は上演できないと伝えている。「なぜなら作曲家たちはそれに作曲することを断っているからである。ワイセにはその内容が気に添わなかったし、クーラウは臨時の支払いを要求するから」(注326)。また当局は次のようにも述べている。「前述の国から俸給をもらっている二人の作曲家、プロフェッサー・ワイセとプロフェッサー・クーラウにおける作曲の義務は充分な取り決めが必要である。何故なら劇場当局が劇場のための仕事を委託するとき常に困難にぶつかるからである」。さらにワイセは年俸1000リグスダーラーをもらい、クーラウはプロフェッサーになっても600リグスダーラーしかもらってないことが明らかになっている。そしてクーラウは以前の300リグスダーラーの固定給に、『ルル』の時は300リグスダーラー、『ウイリアム・シェイクスピア』には400、『フーゴとアーデルハイド』に600、『妖精の丘』には350を得ていたことが明らかになっている。クーラウは『妖精の丘』の支払いには不満足であった。ワイセも又、臨時の支払いが行われないことに不満を訴えている(注327)。当局と作曲家の間に緊張した空気が漲り、結局劇場当局はハウクに適当な方法でワイセとクーラウに彼らの作曲の義務を協調することを頼んだのだ(注328)。その後、二人に同様なことが書かれた手紙が送られた。その内容は彼らは地位により1年おきに劇場音楽か教会音楽を提出する義務があると強調されているものであった。(条件:臨時の支払いはないものとする。)(注329)。
 しかし、クーラウはこの警告に甘んじたくはなかったし、また彼の名声のおかげでそうする必要もなかった。そして、ハイベアがその年の夏、国王の誕生日(1830年1月29日)に予定されている作品の音楽に作曲してもらいたいと彼に声をかけたとき彼はそれにこう答えている。彼は「その仕事に対し600リグスダーラーの支払いが行われると言う条件ならばその意志はあるが、そうでなければそれに応じる気はない。外国から少し有利な注文をうけているので(注330)」。それに答えて劇場はこの返事を書面で行うように言い、又国王に報告すると脅している(注331)。しかし、クーラウは何らかの方法でこの事柄から抜け出したにちがいない。何故ならハイベアの作品に音楽を作曲しないで劇場のためにはその翌年になって初めて作曲に取りかかったのだから。
 ハイベアが言っている外国の注文とはクーラウがすでに1829年2月に取引を結んだ出版社、ライプツィッヒのペータースとパリのファランクのことで(注332)、彼がその時期から死ぬまで書いた作品の殆どがそこから出版されている。それは相変わらず殆どがピアノとフルートの音楽で(フランスではファランクが後者の独占権を持っていた)、クーラウの報酬は各楽譜のページ毎に1オランダ・ドゥカートであった。いつもその額を払ってくれるペータースに関しては彼は書いている。「現在、私はこの有力なそして信頼の置ける音楽出版社と非常に良い取引を行っています。」(注333)。それに対してファランクは10から40ページの作品では全紙一枚に付き4ドゥカート、40から60ページの作品ではわずか3ドゥカートを支払うだけです」(注334)。それゆえ、自明の如くクーラウはファランクに小品しか送らなかった。後に彼は全ての種類の作品にも3ドゥカートというファランクの要求に従う必要に迫られた。「我々の間で秘密にしておくという条件で、何故ならC.F.ペータース----私の作品を沢山出版している----は全紙一枚に対して4ドゥカート支払っています。」(注335)。しかし、これが彼の唯一の怒りの種ではなかった。彼がかって何度も大作、あるいは意義深い室内楽(弦楽四重奏曲など)の作曲を希望していることを伝えていたにもかかわらず、相変わらず沢山売る事ができる娯楽的な、あるいは簡単に弾ける音楽を量産することでこと足れりとしなければならなかったことである。なぜなら----これに関して出版社ジムロックは、クーラウが彼のg-mollのピアノ四重奏[の出版]を要請したときこう言っている。---「重要な作品はもはや殆ど売れなくなっているし、また久しくピアノ四重奏曲は売れ行きの良い商品には属しておらず、と同時に今日の趣味にはもっぱら流行の作品、華やかなロンド、ディヴェルティメント、ポップリなどが好まれている----」(注336)。クーラウが『妖精の丘』の後の今、プロフェッサーとしてまた、彼の創作力が最高のときに前よりもなお一層この種の音楽を作曲するよう余儀なくされているのを見るのは悲しむべきことである。彼の晩年の3年間の最後の30の作品番号は、例外もあるが果てしなく続く与えられたテーマによるそのようなロンドや変奏曲である。単に彼は「なにを」書かなければならないかだけでなく、「どのように書くか」も出版社から命じられた。クーラウはファランクに書いている。「あなたは私があるロンドに2ページ増やすことを希望しておられますが、私には理解しかねます。そんなことをすればつぎはぎの作品となり、そのロンドはだめになってしまいます。またそれは今取りかかっている仕事に支障を来します。確かにあなたはこのロンドを引き延ばすことはできます。更にあなたはお手紙の中でこれらのロンドはそれぞれ多くても8から10ページに収まるべきであり、ページの数はそれ以下になってはならないと規定しております。いかにして作曲家は注文された音楽がある一定のページ数を(それが多くなっても、少なくなってもいけない)を持つように、彼のファンタジーに限界を決めたりするのでしょう。(注337)。
 クーラウの社会的及び経済的状況を表している1つの記述は新しい後援者であるロシアの商人、ヴィトコフスキーに宛てた一通の手紙にある。彼はクーラウをセント・ペテルスブルクの彼の家で演奏するよう招待した。その招待はクーラウは「もはや演奏家でないから」と言って断念しなければならなかった。彼はその代わりにヴィトコフスキーのパーティに小曲のカンタータを作曲することを申し出ている。その後に、以前に話してある娘さんに献呈するつもりのg-mollの四重奏曲を書き始めていないことを詫びている。手紙は続いている。「私の現在の生活は快適です。しかし決して華やかなものではありません。なぜなら国王は今までわずかな俸給しか与えてくれません。(しかし、国王は昨年の11月1日に私をプロフェッサーに任命してくれました。)[この後にトラーネによって省かれた消去部分が続く。明らかにその肩書きに対するクーラウの皮肉である。彼はそれよりも俸給が多くなる方が良かったのである]。それゆえ私はこの少ない俸給で家族と生活していくことができないので、私は出版社のために報酬の良い多くの器楽曲やら何やらを書かなければなりません。しかし、これらは現在殆どフルートの作品ばかりです。例えば私のA-Dur(作品50)の四重奏曲と同じくらいの長さのフルート作品は68ドゥカートの収入になります。あなたはこのような報酬で新作の四重奏曲を出す出版社を世話してくださいませんか。あるいはあなた自身がその出版を引き受け68ドゥカートの報酬を下さるご意志はおありではないでしょうか。そうであれば私はすぐにも四重奏曲の作曲に喜んで取りかかります。さもなくば私は現在の私の状況に許されないような犠牲を払わなければなりません。なぜならもしあなたが四重奏曲の楽譜を40部お買い上げくださっても、それは出版社の利益となるだけで私のためにはなりません。このようにあからさまに申し上げることをあなたの親切なお人柄からお許し下さることを望みます。悲しむべきことは「芸術はパンに従う」と言うことわざが残念ながら真実であると言うことです。---今週の金曜日に私のオペラ『ルル』の本を、あなたのご希望通り小包で発送致します。しかしこのオペラの総譜のコピーは(その他に台本も)の代金は60ドゥカート以下ということになるとは考えられません。なぜなら総譜は大部なもので写譜料はこちらでは非常に高く総譜に目を通して書き間違いを正すという私の苦労に対してはわずかしかもらえません。ところでこのオペラはこちらでは本当によく演奏され、驚くほどの成功を収めています。そして現在の王立劇場の一番の収入を上げる作品となっています。」(注338)。

会報2011年版に続く(2011年9月発行予定、次号で完結)

(転載不可)