ブスク「クーラウ伝記」脚注


注2)デンマーク語表記の場合ダニエルはフリードリヒの前に置かれる。ここに書かれた呼び名、フリードリヒ(フレデリク)を伴う名の順番は教会記録簿やドイツ語表記に用いられる正しいものである。(クーラウは作品の表紙にはこのようにサインしている)。
注3)1786年、ユルツェンの聖マリア教会の記録簿に記載(トラーネの資料)
注4)Kielmanneggische Regiment、1798年からはLeinsingische Regiment(トラーネの資料)
注5)祖父の名前はNiemegkの教会記録簿にはKuhloとある。
注6)Nygaardの蒐集資料(RA)。付録1を参照
注7)C,Thrane著 Hofviolonernes TId、 232、354、441ページ
注8)家系図には夭逝した二人の息子は除外されている。
注9)Bricka
注10)ニコリーネ・ヴァレンティーネンの口述による(トラーネの資料)
注11)ブリッカとグウラプナーの14ページ
注12)グラウプナーの15ページ
注13)MGG 16巻、1169〜1174段
注14)グラウプナーはこれは事故のすぐ後のことと推量している。その理由としてクーラウの父親が所属していたリンジンク第12歩兵部隊はリューネブルクとユルツェンには1796年までしか駐屯していなかったことを理由に挙げている。
注15)リュンビューの住人、ガラス細工職人ハルベアと肉屋エイベアの口述による(トラーネの資料)
注16)K.Piperの「クリスティアネウム報告書」(1965年12月、ハンブルク)に記述されている文章の出典が明らかにされていないので理解が難しい。例えばad quemの省略形ad qu.を間違ってad quamとしている。おそらく以下が正しいものであろう。"Chori Symphoniaci, ad quem pertinebat, negotiis impeditus haud diu post receptionem in publicis lectionibus nostris desiderabatur",
注17)1802年1月12日ヘルテル宛て手紙(グラウプナー16ページ)
注18)リューネブルクのギムナジウムに通ったことは誤解であるがC.Fr.Kuhlauは確信を持って「ギムナジウムの最終クラスを卒業したことはない」と述べている。(トラーネ資料)
注19)MGG II,227-241段、及びH.Sieversの「1690〜1940年、ブラウンシュヴァイク劇場の250年」73、80ページ
注20)グラウプナー、17ページ
注21)同上、15ページ
注22)クーラウは手紙の中ではシュポアSpohrのことは一切述べていない。Spohrも彼の「自伝」の中でクーラウのことに全く触れていない。クーラウはヴァイオリンソナタ作品33をシュポアに献呈している。1826年1月14日と1829年4月25日に2通のきれいに書かれた事務的な手紙を送っている。後者はフローリッヒFröhlichの紹介状である。
注23)1802年1月12日ヘルテル宛て手紙(グラウプナー、16ページ)
注24)C.Fr.Kuhlauの口述(トラーネ資料)。年月日のないその手紙に関してC.Friedrich.Kuhlauは1803年あるいは1804年としている。私の考えによると後者の1804年の暮れはクーラウがピアニスト、作曲として頭角を現した時期に当たり「不満を述べる」理由が無い筈である。それは1803年の暮れ(11月1日?)か、あるいは1802年の暮れとも考えられる。リヒテンヘルトLichtenheld(名、生年没年不詳)についてはあまりよくわからない。彼は1789年ハンブルク劇場と契約(F.L.M.Meyer著、Fr.L.Schröder II,2.Abth.ページ106、ハンブルク劇場のカルテル)した。しかし、コメディエンツェッテル紙に初めて登場した1801年及びそれ以降は俳優及び歌手として活躍している。クンツェンの『オシアンの竪琴』(1802年5月3日初演)のSalgar役以外は常に端役ばかりである(例えば『魔笛』の僧侶など)。新聞各紙には楽器レッスンの広告で出ている人名があるが確定できないのでここでは述べない。
注25)C.Fr.Kuhlauの口述(トラーネ資料)
注26)Comödienzettel紙1803年4月1日〜1804年3月31日
注27)同上
注28)Comödienzettel紙1804年4月2日〜3月31日、及びナッハリヒテン紙1804年12月8日。デュッセックDussekの協奏曲とは作品50、ト短調だと思われる。それはベーメ社からその前年出版された。6月3日の演奏会でクーラウが演奏したヒンメルHimmelの六重奏曲も同時期に出版されたものである。(両方の作品はハンブルク・ナッハリヒテン紙1803年11月19日に広告されている)
注29)コメディエンツェッテル紙1805年4月1日〜1806年3月31日、ハンブルク・ナッハリヒテン紙1806年3月12日
注30)コメディエンツェッテル紙1807年4月1日〜1808年3月31日、ハンブルク・ナッハリヒテン紙1807年12月23日
注31)ハンブルク・ナッハリヒテン紙1808年2月27日
注32)ハンブルク・ナッハリヒテン紙1808年4月6日と4月16日
注33)アルゲマイネ・ムジカーリッシェ・ツァイトゥングAMZ(訳注:プライトコップ社刊行の音楽情報紙、一般音楽新聞と訳されている。)12巻Nr.13(1809.12.27)。入場券は円形のカノンがあしらわれている。DF169(訳注:Dan Fog著、クーラウ主題カタログ)

注34)ハンブルク・ナッハリヒテン紙1810年3月3日
注35)ハンブルク・ナッハリヒテン紙1810年4月11日
注36)おそらくクーラウが作品1〜3、「3曲のロンド」を献呈したヴァルモーデン・ギンボルンWalmoden Gimborn伯爵夫人のことであろう。(トラーネ84ページ)
注37)C.Fr.Kuhlauはその時期は1806/7年又はそれ以降であると言っている。(トラーネ資料)
注38)1830年の宛先不詳の手紙の中の略歴の個所で最初に書いた「作曲で」に消し線が引かれ「ゲネラルバスで」と書き改められている。(トラーネの写本)
注39)ハンブルク・ナッハリヒテン紙1804年6月16日。クーラウの名前がハンブルクの新聞紙上に現れた最初のものである。この間違った綴り(訳注:kulau)はクーラウの最初の出版作品であることを裏付けているように思える。
注40)ハンブルク・ナッハリヒテン紙1806年7月12日と7月26日
注41)ハンブルク・ナッハリヒテン紙1806年8月11日
注42)ハンブルク・ナッハリヒテン紙1807年7月11日
注43)1810年9月10日ヘルテル宛て手紙(往復書簡記録帳)
注44)1810年10月6日ヘルテル宛て手紙(往復書簡記録帳)。この作品のリストは彼にとって重要な意味を持つものとなっている。
Cramer: Sonater op. 23, 25, 27, 29, 31, 34, 37, Air m. 10 var. nr.3,5.
Dussek: Sonater op. 35(1,2,3), 45(1,2,S), "Le Retour a Pais" (op. 70), Fantasi & fuga op. 55.
Beethoven: Sonate f.cello & klav.op. 69, klavertrios op. 70 (1,2), Sonata quasi fantasia op. 27,2, variat. sur le Trio "Tändeln u. Scherzen" [WoO 76], klavervariat.op. 34,35.
Wölfl: Fantasi & Fuga nr.28. "Romance d'une folie de Mehul variée", Andante variée.
Abt Vogler: Der eheliche Zwist. Sonate mit 2 Viol. Br.& Bass. G.Wiedebein: Theme variée.
Pianoforte Schule des Conservatorium in Paris. Dritter Theil.
注45)ハンブルク・コレスポンデント紙1810年11月17日と11月28日
注46)同上1810年12月8日
注47)1810年12月3日 ハウクに宛て手紙(Kap. indk. brv. 1808-11)
注48)クーラウがコペンハーゲンに着いた正確な日付は(「カスパール・マイヤー」(!)という偽名で[ピアニスト・クーラウ トラーネの資料])わかっていないが、1810年11月と考えられることは以下のヘルテル宛ての1811年6月の手紙:「私の演奏旅行をすでに8ヶ月に及んでいます」。同じ手紙の中で1810年12月18日付のヘルテルからの手紙を随分後になって受け取ったことを書いている。これはいずれにせよこの時点でドイツを出発していたということである。ハンブルクからの最後の手紙は1810年10月26日でありコペンハーゲンからの最初の手紙は1810年12月31日である。
注49)アドレッセ紙 1811年1月17日
注50)アドレッセ紙 1811年1月26日
注51)アドレッセ紙 1811年2月13日
注52) そのポストはピアニストJ.C.Försterに与えられた。
注53)1811年2月27日 ハウク宛て手紙( Teatr. indk. brv. 1811-12)
注54)1811年8月29日と9月16日の劇場当局宛て手紙(Kap. indk. brv, 1808-11および Teatr. indk. brv, 1811-12)
注55)トラーネ資料
注56)N. Bøgh著:「クリスチャン・ヴィンター」第2章 71ページ
注57)アドレッセ紙 1811年11月11日
注58)1812年 4月 24日(アドレッセ紙 1812年4月14日)
注59)Cplpr.1811~13年96ページ
注60)アドレッセ紙 1812年4月27日
注61)Schneider:「著者から出版社宛の手紙」の中に引用されている(802ページ)ヘルテル宛て1811年12月8日の手紙
注62)ワイセの手紙 第1巻 56ページ以降
注63)ヘルテル宛て1812年5月2日の手紙
注64)アドレッセ紙 1813年1月15日(Brvkldb.)
注65)サインを伴う常軌を逸する請願書 1813年(Kap.kgl.res.1794~1815)
注66)クーラウがピアノソナタ作品8を感謝を込めて献呈したミュンスター・マインホーヴェル伯爵夫人(jfr.brev til Härtel)
注67)Kap.kgl.res.1794~1815
注68)Cplpr.1811~13年249ページ
注69)同上の290ページ以降
注70)1813年8月30日の請願書(Kap.indk.brev.1812~15)
注71)クーラウはハンブルク時代この作品の多くの手本に接している。1803年8月ベーメ社は「シラー作『喜びの頌歌』、音楽(Friedrich(?) Schröder」のことを掲載をしている(ハンブルク・ナッハリヒテン紙1803年8月24日)。そして翌年10月にBohm氏の「Freude, schöner Götterfunken」(木管楽器、ホルン、ヴァイオリンオブリガートの)がオラトリオと一緒に演奏された。両者は「大オーケストラ用に編曲され多くの領地、その他の町々で絶賛のうちに演奏された」ものである。(「ドイツ劇場」のプラカード1804年10月13日)
注72)トラーネ資料
注73)Kap.indk.brev.1812~15
注74)アドレッセ紙 1814年4月4日
注75)アドレッセ紙 1816年5月18日

注76)エーレンスレーヤー:「想い出」第3章44ページ 1814年は1813年の誤り。トラーネのクーラウがエーレンスレーヤーの部屋の上の屋根裏部屋に住んでいたという逸話は事実ではない。しかし、彼らはある時期(1812年頃から)お互いにそれほど遠くないところに住んでいた。エーレンスレーヤーやBredgade 33、クーラウはStore Kongensgade 351(現Dronningens Tværgade 15)(Vjv.1813 og Minderige Huse)
注77)クーラウ自身が語る:「私はこの重要な仕事に全冬をかけた。」(1814年4月22日の請願書(Teatr. indk. brv. 1813-14)。彼は通常オペラには7〜9ヶ月、演劇付帯音楽には2〜4ヶ月かけている。
注78)ハウク当ての1813年6月23の手紙(Kap.indk.brev.1812~15)。彼が「レーウェンスボー」を訪れたことは最初のことではない。そこへはしばしば客人として、その他にもその冬も訪れている。(レーウェンスキョル男爵夫人の口述、ブリッカのメモ 54ページ参照)
注79)ブリッカ
注80)モールの口述、ブリッカのメモ とトラーネの資料、それらはここで彼が第2幕!を書き上げたに違いないとしている。しかし一番長いのは第1幕(全オペラの半分を占める)でありその時点ではまだ第1幕は書けていなかったはずである(!?)。
注81)ベアグレーンの口述、ブリッカのメモ
注82)両親がいつコペンハーゲンにやって来たかと言うことは一部分不確実なことで支配されている。しかしここに書かれている時期は次の事柄に由来する。:1812年の前半は両親はハンブルクに住んでいた。(1812年5月19日のクーラウ宛ての父親の手紙。トラーネの資料)
注83)ベルリンからやって来た(1814年12月21日のアドレッセ紙による)。彼はカールスルーエからやって来た。(MGG とGroveによる)。
注84)アドレッセ紙1814年12月16日
注85)アドレッセ紙1815年1月16日、カンタータは1822年に作品36として"Die Feier des Wohlwollen" と題して出版された。ピアノ変奏曲とは疑いもなく1814年4月11日の演奏会で初演された作品15の"God Dag, Rasmus Jansen"に違いない。
注86)1815年1月28日シュヴェンケ宛て手紙(王立図書館蔵)
注87)1815年2月8日 Dagen紙
注88)「クーラウはしばしばイエーテボリを訪ねてた」とトラーネは言っている(151ページ以降)が、1828年の滞在のことしか資料にはない。
注89)1815年4月11日 Stockholm dagligt Allehande紙、AMZ.1815年7月5日、17年度、ナンバー27
注90)1815年4月24日と1815年4月11日のStockholm dagligt Allehande紙、トラーネによればクーラウは最初の演奏会にC-Durのピアノ協奏曲を、2回目の演奏会にf-mollのピアノ協奏曲を弾いたと言っている。スエーデンの新聞には.「民謡」の変奏曲と書かれている。
注91)フローリヒのカノン帳(音楽史博物館所蔵)の中にクーラウの筆跡でクルセルの4曲のカノンが書かれている。その内の一つはフェルディナンド・リースの旅立ちを嘆いているものがある。リースは1810〜13年スカンジナヴィアとペテルスブルクの楽旅を行っている。31ページ参照。クーラウの2本のホルンのためのコンチェルティーノ(1821年)とクルセの2本のクラリネットのためのコンチェルト(ライプツイッヒ・ペータース社1816年出版)の音楽的な類似関係は偶然であろう。
注92)カイパーの「クーラウのピアノ作品帳」の中の未出版のピアノのためのロンド(DF.202)には「スエーデンのGefleにて1815年6月2日に作曲された」とある。「クーラウはウプサラまで北上し」とは甥のゲオルクの証言にある(トラーネ資料)。
注93)1815年7月15日付け、兄アンドレアス宛ての父親の手紙(トラーネ資料)。
注94)Brvklb. 「歴史と地理」年報、1895年版 第1巻、379~80ページ。
注95)Kap.indk.brv. 1812-15
注96)アドレッセ紙1815年12月4日、ピアノ変奏曲には作品22がある。J.P.エリクソンのデンマーク音楽学年鑑1978年版第9巻148ページ参照。
注97)アドレッセ紙1815年12月20日。おそ,0らくこの年作曲された作品127、変ホ長調のソナタのことであろう。
注98)1816年12月20日「コペンハーゲンの最新情報」の中の「旅行中の音楽家よりの便りよりの抜粋」(2月のハンブルクにおいて)。この生徒が誰であるかは知られていない。クーラウのそれまでのヴァイオリン・ソナタは「易しいソナタ」(1806年)と「易しいソナタ」作品6aがある。両者ともヴァイオリンがアド・リビトゥムである。
注99)ハンブルク・ナッハリヒト紙 1816年3月4日。クラリネットとピアノのためのソナタは不詳
注100)ハンブルク・ナッハリヒト紙 1816年3月16日。
注101)Dagen紙 1816年4月17日(3月23日のハンブルクからの記述より抜粋)
注102)3月30日、4月5日、4月7日、4月10日。『盗賊の城』は1816〜17年の間に計10回の公演があった。(ハンブルク市立劇場の)コメディエン・ツェッテルによる。
注103)Dagen紙 1816年6月19日 ハンブルクの『盗賊の城』の公演に関して(1816年3月28日のハンブルク・モルゲンブラット紙)クーラウの旧友、リヒテンヘルトがマルコルムの役で歌っている。
注104)コメディエン・ツェッテル 1618年4月1日〜1817年3月31日、これに該当するアリアは疑いもなく第2幕のユリアーネのブラヴーラ・アリア「強きユディット」に違いない。
注105)Dagen紙 1816年4月19日 コペンハーゲンに来た一行のうちミンナ・ベッカーだけが4月16日に到着したと記述されている。招聘会社は4日間に4回の公演を行った。クーラウはその後に到着したに違いない。ハンブルクからヘルテル宛ての1816年4月12日付けのクーラウの手紙には近日中にコペンハーゲンに戻ることが書かれている。
注106)アドレッセ紙 1816年6月12日。 Dagen紙 1816年6月18日。
注107)Copibog1815〜17年の内の1816年6月1日。
注108)1816年6月3日 劇場宛の手紙
注109)Copibog1815〜17年の内の1816年11月21日。
注110)1817年6月4日の請願書
注111)Copibog1817〜20年の内の1817年7月31日。
注112)甥ゲオルクの証言。(トラーネ資料)
注113)モールの証言。(トラーネ資料)
注114)エーレンスレーヤーの「想い出」4章40ページ、このシャルに対する緊張した関係はクーラウ宛のハウクの催促状が示している。
注115)エアスレウの口述(ブリッカのメモ)、トラーネの104ページ参照。
注116)Dagen紙 1816年11月15日 及び劇場宛手紙1816年11月23日(Teatr. indk. brv.1815〜16)
注117)アドレッセ紙 1816年12月7日及び12月11日
注118)Copibog1815〜17年の内の1817年1月7日。
注119)ペーダ・ヨート:『オシアンの竪琴』はバゲセンがオリジナルと称している『魔法の竪琴』と極めて酷似していることについて。1817年1月28日
注120)J.バゲセン著:イエンス・バゲセンがペーダ・ヨートを告訴した裁判記録を伴う『魔法の竪琴』の話。1818年
注121)国王への嘆願書1817年3月9日(Teatr. indk. brv.1817〜18)
注122)劇場宛手紙1817年11月12日(Teatr. indk. brv.1817〜18)
注123)国王への嘆願書1817年3月30日(Teatr. indk. brv.1817〜18)
注124)国庫への手紙1817年5月5日(Teatr. indk. brv.1829〜30、一般用途の財源1829年3月13日の記録には1817年5月18日にクーラウに支払われた借入金は返還されていない)
注125)劇場宛手紙1819年1月20日(Teatr. indk. brv.1819)
注126)Copibog1817〜20年の内の1819年1月21日。
注127)アドレッセ紙 1819年2月24日
注128)オワスコー 第4章 589ページ以降
注129)5月26日と5月30日(アドレッセ紙 1817年5月20日と5月28日)
注130)11月4日(アドレッセ紙 1817年11月1日)
注131)シュミット宛手紙1817年4月26日(ハンブルク市立・大学図書館。手稿課)
注132)劇場宛手紙1817年9月2日(Teatr. indk. brv.1817〜18)
注133)V.C.ラウン著:古き時代の演奏会及び音楽愛好会 171〜72ページ
注134)Fr.シュミッツの日記325ページ、このことに関してワイセのハウク宛手紙1718年5月24日(ワイセの手紙第2章3ページ参照)にワイセのカンタータは10月31日に演奏されていてRavnが書いているように2月11日ではない。またはワイセの手紙第2章290〜91参照。クーラウのカンタータに関して音楽史的に興味を惹くことがある。それは二重唱の代わりに導入の素晴らしいフーガが置かれていたことである。当時ワイセはフーガ様式には堪能でなかったのこの作品をフーガ作曲のレッスンに用いた。ニコリーネ・ヴァレンティーナの口述(トラーネ資料)
注135)アドレッセ紙 1818年3月14日及び3月18日 予定されていたプログラムは『魔法の竪琴』序曲、ソリストがクーラウのベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番、クーラウの歌曲「永遠の花」ヘー=グルベア歌詞、いくつかのクーラウのピアノの変奏曲とカンタータであったが演奏されたのは「永遠の花」とカンタータだけであった。ベートーヴェンのピアノ協奏曲も演奏されなかった。
注136)アドレッセ紙1817年12月20日
注137)同紙1818年2月1日
注138)同紙1818年1月14日
注139)同紙1818年5月14日と5月27日
注140)Cplpr.1816〜18年、1818年4月25日
注141)アドレッセ紙1818年5月27日、ルンの口述、ブリッカの資料
注142)1818年3月25日の有給の楽師の待遇についての国王への請願の中でクーラウは書いている。「これまで私は息子として、兄弟として、近しい親戚として、私自身と大家族を養うために働かねばなりませんでした。---」
近しい親戚というのはヨハンヌ・エリーサベト(1801〜?)従姉妹、ソーアン・クーラウ(1798〜1864)従兄弟で、彼はクーラウの家に最初の2年は住み、後にコペンハーゲンに移った。彼は1820年9月16日に王立楽団のチェリストとして職を得た。(モールとソーアン・クーラウ夫人の口述、ブリッカの資料)。後に彼はしょっちゅうクーラウと付き合い、時には毎日と言うこともあった。(ソーアン・クーラウ夫人の口述、ブリッカの資料)。クーラウは1826年リュンビュウへ家族とともに移り、1年又は何回かの期間に家族と離れて1人で住んだ。(ルン嬢の口述、ブリッカの資料、1825年1月5日のアブラハムス宛の以下の手紙、「このあいだ私が家に居なくて貴方と会えなかったのは誠に残念なことでした。先週は強い歯痛のため私は両親のところに行っていました。今は良くなりましたので朝から1時までは家に居ます。」(ストックホルム音楽史博物館)。又はクーラウはノーアブローに居たのかもしれない。家族が再び市内に引っ越したので??(付録IIを参照)。
注143)Cplpr.1818〜20年、1820年8月2日、劇場当局はすでに1ヶ月前に作曲家としてクーラウを考えていた。(1818年6月27日、劇場当局宛ボイエの手紙。(Teatr. indk. brv.1817〜18年)
注144)アドレッセ紙1818年10月26日
注145)同紙1818年11月10日
注146)Dagen紙 1818年12月16日、カンタータのテキストは1818年12月18日、1818年12月18日の法律研究家のF.T.ホアティカールのハウク宛の手紙の中で「クーラウはその曲を作曲(!)しています」と書かれている。(Kap.indk.brv. 1816-18)
注147)1819年1月29日、ボイエの劇場当局宛の手紙(Teatr. indk. brv. 1819)
注148)当局は1819年2月3日にそれに答えてクーラウの総譜はまだ出来上がっていないと言っている。(Copibog 1817~20)
注149)1819年4月18日ボイエからの劇場当局宛手紙(Teatr. indk. brv. 1819)
注150)注147と同様
注151)注149の如く ボイエとクーラウが配役について一意して提案をしたという資料は残っていないが、本質的には違う意見ではなかったことは確かである。1818年6月27日、ボイエは劇場当局に宛てた手紙で、エリサ---カロリーネ・リン、ヴォルフ---リューエ、ヴィルヘルム---セッティ、アルブレヒト---ゲオー・ツィンク、ルドルフ---ウィンスロー(息子の)、牧師アントン---ハークと書いている。
注152)1819年11月31日(Copibog 1817-20)
注153)1820年1月20日(同上)
注154)1820年3月1日(Copibog)
注155)Dagen紙 1820年4月25日
注156)1820年5月8日 国王宛請願書(Teatr. indk. brv. 1820)
注157)1819年4月28日(Cplpr. 1818-20)
注158)1819年4月28日(Copibog 1817-20)
注159)1821年2月16日 クルセの劇場当局宛手紙¸ (Teatr. indk. brv. 1821)
注160)1821年2月3日 劇場当局宛手紙(Teatr. indk. brv. 1821)
注161)1821年1月21日 H.L.ミケルセンの劇場当局宛手紙(クルセの1821年2月3日の手紙を添えて)
注162)1821年2月8日(両者とも)(kap. kgl. res. 1821)
注163)1821年2月12日 クーラウの請願書にハウクの推薦(Cplpr. 1820-22)
注164)1821年3月9日(Copibog 1820-23)
注165)アドレッセ紙1819年2月26日 
注166)1819年5月1日 ヘルテル宛手紙(Brvkldb)後にこの仕事はゲッツェ(当地の音楽愛好者音楽会のディレクター)という人に引き継がれた。
注167)ヴァルター・フンメル著:W.A.モーツァルトの息子たち(85〜86ページ)
注168)1821年3月2日 ヘルテル宛手紙:「二、三日のうちにここを立ち、4月には貴方とお会いすることが出来ることと思います。とても楽しみにしています。」(Brvkldb)ドベラン滞在中のことかもしれない(Busk著50ページ参照)
注169)1821年7月27日(Brvkldb)1年前(1820年2月1日)クーラウはライプツィッヒの「リラ」音楽協会の名誉会員に推挙されている。(コペンハーゲン・最新情報1820年2月29日、とDagen紙1820年3月23日)
注170)トラーネ 153ページ
注171)1821年7月27日ヘルテル宛手紙。「我が家にいるようにくつろいでいます」とはウイーンに到着したことを意味している。これはすでに1821年6月24日のDagen紙に書かれている。
注172)1821年9月22日 ヤコブ・トリアー宛手紙(王立図書館)
注173)1821年10月16日Dagen紙に「クーラウはミラノに居て、今頃ローマに向かっている。」とありデンマークの人たちはイタリアに行ったものと信じた。しかし11月27日の同紙では「11月20日にハンブルクに到着した。」とある。それらから考えるとイタリア旅行は正しくない。これはあるドイツの新聞からの引用であった。
注174)1821年10月7日 アンドレアス・クーラウからヘルテル宛の手紙、(シュミーダー著:「ある作者よりある出版社への手紙」)
注175)ソーアン・クーラウ夫人口述、ブリッカ資料
注176)1886年9月11日のライプツィッヒ日々新聞におけるデルフフェル博士のゲヴァントハウス・インスティテュートの記念記事によると(トラーネ資料)そこは照明が行われ、クーラウの音楽がゲヴァントハウス演奏会で演奏された最初のことであった。
注177)Dagen紙1821年11月27日
注178)オペラ『盗賊の城』はこの年代にヨーロッパのあちこちで入れ替わりに演奏された。1816年3月のコペンハーゲン以外でのハンブルクの最初の演奏後(Busk著35ページ参照)、1819年7月28日カッセルで『ロシュルップの城』と言う名前で上演(グラウプナー、28ページ)。これは1820年8月に掲載された(一般音楽新聞、第22年巻34号1820年8月23日)。再びハンブルクで1822年7月(Dagen紙1822年8月10日)。ライプツィッヒで1822年9月4日と11日(ライプツィッヒ日々新聞1886年9月11日---トラーネ資料)。リガにおいて1822年9月(一般音楽新聞、第24年季、39号1822年9月25日)。ブレスラウで1825年2月26日(レーヴェンヴェルク編:オペラ年刊637ページ)。1829年におけるハンブルクでの3度目の上演。
注179)ハンブルク・コレスポデンツ紙 1821年11月23日 
注180)Dagen紙 1822年1月8日、(巨匠・グーゲルは1月5日又は6日キールからコペンハーゲンに到着と書かれている)
注181)Dagen紙 1821年12月13日
注182)同紙 1821年12月10日
注183)1822年3月16日 ヘルテル宛手紙(Brvkldb)
注184)1822年1月1日 Iversens フューン紙 及び、1822年1月4日フューン財団アドレッセ紙 ホルン奏者が演奏した曲(一曲のコンチェルト、一曲のパストラール、「God save the King」による変奏曲、全て2本のホルンで)は、作曲者名が記載されていないが、クーラウの作品ではない。(注186参照)
注185)1822年1月7日 Iversens フューン紙 クーラウ、シュヴァルツ、グーゲルは1月3日〜6日に海峡を渡った。Dagen紙(1822年1月8日)ではグーゲルはキール経由で(!)5日あるいは6日にコペンハーゲンに到着したと書かれているが、クーラウは1月7日にオーゼンセ(!)から到着していると書かれている。
注186)アドレッセ紙1822年1月21日 プログラムはオーゼンセでホルニストたちと行ったものと似ているが、詳述すると『コンチェルタンテ』はベルンハルト・ロンベルクの作品、パストラールはクーラウのピアノ伴奏付き、ピアノの変奏曲とは3月16日にヘルテルに送った、失われた作品43に違いない。
注187)同紙 1822年2月19日及び20日
注188)ゴットフリートがヨーロッパに発つ前にカルカッタで演奏会をしている。その中で彼は自身の作品、バセットホルン協奏曲を演奏している。息子はヴァイオリン、フルート、ピアノで登場している。(一般音楽新聞、第24年巻24号1822年6月21日)
注189)1822年5月4日 ヘルテル宛手紙(Brvkldb)。この情報はあまり重要なことでなかったので一般音楽新聞には掲載されなかった。
注190)同上 60ページ
注191)1822年6月18日 ヘルテル宛手紙(Brvkldb)。
注192)1822年9月28日 ヘルテル宛手紙(Brvkldb)。1822年10月15日ヘルテル宛手紙の中でクーラウはピアノ変奏曲作品43、4手用ピアノソナチネ作品44,ホルン小協奏曲の手稿の返却を求めている。作品43は印刷されず失われ、作品目録は欠番となっている。
注193)カール・シュミット著:「オーゼンセにおける演劇と劇場関係についての口述」67〜68ページ
注194)Dagen紙1822年12月7日、 コペンハーゲンの最新の叙述1822年12月3日と12月10日
注195)コペンハーゲンの最新の叙述1822年12月17日
注196) Iversens フューン紙とフューン財団アドレッセ紙1822年12月3日
注197)1822年9月5日(Teatr. indk. brv. 1822-23)
注198)1822年9月11日(Copibog 1820-23)
注199)1823年1月31日 ハウク宛の手紙(Kap.indk.brv. 1822-24)
注200)1823年2月5日 同上
注201)1823年2月7日 同上
注202)1823年4月10日 同上
注203)Dagen紙1823年5月1日
注204)トラーネ151ページ、グラウプナー41ページ
注205)この旅行か、1821年の以前の旅行かクーラウはドッベランに滞在した? 4手用の「ドッベランからのワルツ」(DF193)は1824年7月6日カイパーによって筆写されている。
注206)1823年7月30日シュヴァルツ宛て手紙(ストックホルム王立音楽アカデミー図書館)
注207)1823年9月9日 劇場当局宛手紙(Teatr. indk. brv. 1822-23)
注208)モールの口述、トラーネ資料
注209)ギュンテルベア大尉の口述、トラーネ資料
注210)アブラハムス142〜43ページ
注211)1824年2月11日 ギュンテルベアの劇場当局宛手紙(Teatr. indk. brv. 1822-23)
注212)ルートヴィヒ・ベッチャーの口述、トラーネ資料。マリー・ツィンク(旧姓トムセン)夫人は1823年4月6日に死去している。これはクーラウが『ルル』の作曲を始めた時期のすぐ後である。
注213)注211と同じ
注214)1824312劇場当局宛手紙(Teatr. ujourn. brv. 1794-1859)
注215)ギュンテルベアの劇場当局宛手紙(クーラウのために送られた)日付けなし、誰かの手によって「1824年6月」書かれたものが「5月21日以前」ト訂正されている。(Teatr. indk. brv. 1822-23)
注216)オーアスコウ IV章758ページ以降
注217)コペンハーゲンの最新の叙述1824年11月9日、『魔法の竪琴』のスキャンダルのようなことがこの公演でも起こった。ゴングが鳴る前に聴衆が騒ぎ出したのは10分(後になって5分と短縮した)と経っていなかった。(オーアスコウ IV章615ページ)
注218)コペンハーゲンの最新の叙述1824年12月14日
注219)オーアスコウ IV章763ページ以降
注220)『盗賊の城』と反対に『ルル』は国外で上演されなかった。ドイツではハンブルクの市立劇場におけるアウグスト・クレンゲルの演奏会で序曲と第二幕から愛の二重唱(ナンバー10)が演奏された(グラウプナー66ページ)。クーラウは1828〜29年マインツのショット社から総譜の出版を試みている(1829年3月28日当社宛手紙Brvkldb.)。クーラウがそのための旅行の準備をした1829年パリのオデオン劇場で計画されていた『ルル』の上演と1830年ハンブルクの市立劇場の上演は行われなかった(1829年4月25日のファランク宛手紙Brvkldb.)とクレプス宛て手紙(1830年3月30日Brvkldb.)。
注221)1824年11月5日 ハウク宛の手紙(Kap.indk.brv. 1822-24)、1824年11月16日(Kpl.kgl.res1816-29)と1824年11月17日(Cplpr.1824-26)
注222)1824年12月7日 劇場当局宛手紙(Teatr. indk. brv. 1824-25)
注223)(Teatr.kgl.res.1825)(グラウプナー、43ページ参照)
注224)1825年6月28日 劇場当局宛手紙(Teatr. indk. brv. 1824-25、ハウクの推薦1824年9月28日を伴って)、1825年9月27日の王様の決定書(1825年10月29日、Copibog1825-28)
注225)トラーネ(152〜53ページ)によると、この招待によって作品60の3曲のピアノソナタが感謝の気持ちとして献呈された。1824年11月24日リンドベリ宛の手紙(ストックホルム王立音楽アカデミー図書館)の中でクーラウはグラーフ制ピアノをノルケン男爵のために世話をすることになっていて、スエーデンに行く時の寄り道として楽しみにしている、と書いている。1825年クーラウはストックホルム王立音楽アカデミーの会員になっている。(Norlind著:Allmänta音楽事典第1巻1916年ストックホルムの497〜99ページ)
注226)モールの口述、トラーネ資料
注227)1825年6月15日(Cplpr.1824〜26年)
注228)Dagen紙1825年7月2日, ベリステーンがクーラウの弟子であったということはハスハーゲンからアンドレアス・クーラウに宛てた1833年4月12日の手紙に書かれている。(C.Fr.クーラウの口述、トラーネ資料)
注229)Wiener Zeitung紙1825年7月29日, Nr. 171, 727段, その後「ルートヴィヒ・ファン・べートーヴェンの会話帳」(BKh)第8巻(91〜103帳)K.H.ケーラーとG.ヘーレ編纂/1981年/ライプツィッヒ
注230)(BKh)8巻(92帳)43〜50ページ、その下に”Schwenke dich”と書かれている。これはハンブルクのクーラウの先生、C.F.G.シュヴェンケと1825年4月に「Cacilia」会報に掲載されたべートーヴェンのカノン(WoO 187)の二つを指し示している。同じ年の2月にクーラウの2曲の「謎のカノン」が掲載されていた。しかし、甥の書き込んだことからべートーヴェンはそれ以前クーラウのことは知らなかったように思える。
注231)イグナーツ・リッター・フォン・ザイフリート著:「ルートヴィヒ・ファン・べートーヴェンのゲネラルバス、対位法、作曲法の習得」(1832)第2版、補遺22〜23ページ。
注232)(BKh)8巻 350、352ページ
注233)(BKh)8巻 第93帳 71〜85ページ、A.W.セイヤー著:「ルートヴィヒ・ファン・べートーヴェンの生涯---」第5巻234ページ以降、とW.ノール著:べートーヴェンのクーラウ-バッハ-カノンについて「Die Musik」誌1935年12月、第28年刊、第3冊、166〜74ページの2冊を参照。セイヤーとノールは2人とも会話帳(第93帳)の出版するには「礼節をわきまえていない」ページが削除されている(ノールは20ページ!と言っている)ことを述べている。ノールはその際の会話の主導者は前述のようにピリンガーとホルツであったが、クーラウだったと誤って書いている。
注234)『フィデリオ』の王立劇場での初演は1829年12月1日。
注235)音楽の絵謎(DF176)は「一般音楽新聞」第21年刊、Nr.48、1819年12月1日号に掲載。
注236)イグナーツ・リッター・フォン・ザイフリート著:「ルートヴィヒ・ファン・べートーヴェンの----」235ページ
注237)(BKh)8巻、第94帳、89ページ
注238)同上、90ページ
注239)同上、91ページ
注240)同上、98ページ
注241)同上、109ページ
注242)同上、112ページ
注243)同上、124ページ
注244)同上、127ページ
注245)王立図書館
注246)(BKh)8巻 172、377ページ
注247)アブラハムス、217ページ
注248)Dagen紙1825年10月27日、 注355)参照
注249)E.コリンにより出版された「J.コリンの書類」56ページの中にある1825年11月1日付けボイエから劇場当局宛手紙 Ang.パントマイムにシャルの音楽バレエ『マクベス』を用いる提案(トラーネ164ページ参照)
注250)1825年11月22日(Copibog 1823-28) 
注251)「J.コリンの書類」57ページの中にある1825年11月7日付けボイエから劇場当局宛手紙
注252)1825年11月28日 ボイエ宛手紙(王立図書館)
注253)「J.コリンの書類」57〜59ページの中にある1825年12月2日付けボイエから劇場当局宛手紙にあるシーンの指示と配役の提案
注254)「J.コリンの書類」59ページの中にある1826年1月11日付けボイエから劇場当局宛手紙
注255)オーワスコー 第4章796ページ
注256)アドレッセ紙1826年4月6日
注257)N. Bøgh著:「Chr.ヴィンター」46ページ以降、Georg Friedich Kuhlau自身の語ったことによると「彼は堅信礼を行われる前まではクーラウの家に住んでいた。しかしそれはクーラウがリュンビューに引っ越す以前に行われていた。その甥に関して、彼はピアニストとして1826年11月19日のAugust Koronの王立劇場の演奏会でカルク・ブレンナーのロンド・ブリランテを演奏してデビューしている。(アドレッセ4826年11月4日)。彼は1831年から案内書にはBlegdamveien 30に住みピアノの指導者と出ている。1878年コペンハーゲン没。未婚。
注258)トラーネ173ページ、彼女は1835年頃にオールボーから去っている。(1834年「国勢調査」第8巻107ページ、そしてコペンハーゲンで彼女の仕事を続けた。1845年「国勢調査」23巻279ページ。そして彼女の大半の人生はライプツィッヒ(トラーネ174ページ)であり、1862年そこで亡くなっている。
注259)1829年12月17日 氏名不明の伯爵夫人宛の手紙(Brvkldb)。
注260)1821年9月22日ウイーンよりトリアー宛て手紙の中で「コペンハーゲンに帰ったら個人レッスンをやめられることを望んでいる」と書かれている。(王立図書館)
注261)1829年12月17日モシェレス宛て手紙に「自分は10年前からレッスンをすることを全くやめている」と付け加えている。同日の不肖の伯爵夫人とクーレンダー(の息子)宛の手紙にも同様のことが書かれている。
注262)ブロンステズ著「クーラウのゲネラルバスの講義(及びテュルクの理論)の勉強の覚え書き」、1817〜18コペンハーゲンの冬(王立図書館)。更にF.C.Haldの理論のレッスン受講(1818年Hald宛て手紙。Brvkladb.)そして声楽の教師A.Lund(ca.1800~1873以後)A.Lundの口述(ブリッカ) 注263)DF201の筆写譜には1818年2月7日、DF.173と214には1818年9月29日と書かれている。
注264)Op.51とOp.88を編曲、DF.140のオーケストレーション(71ページを参照)、DF.170a、175、184、193、194、195、201、202、214、220の筆写譜
注265)1820年4月16日の王立劇場の演奏会における「宮廷音楽家クーラウの指導のもとに盲目のペーダー・イエンセンの作曲した音楽付き、インゲマンのプロローグ」が告知されている(1820年4月11日Dagen)。(Dagenには1820年9月16日に王立劇場のチェリストとなった従兄弟のチェリスト、ソーアン・クーラウのことは記載されていない)。イエンセンのフルートのレッスン広告が彼の師であるクーラウとフルーティスト、ブルーンの推薦で1823年5月17日のアドレッセ紙に掲載。1826年4月5日イエンセンから劇場当局に宛てた手紙に彼はクーラウから「魂の試練」の作曲は思い止まるよう忠告されたことを書いている(Teatr.ujoun.Brv.1794-1859)。
注266)48,50ページ参照。彼は1826年にイエーテボリに転居している。(W. Berg: イエーテボリの音楽史論1754−1892、Göteborg 1914,160ページ以降。
注267)DBL3巻1889、30ページ
注268)Mohlの口述、トラーネの資料、ブリッカの記録
注269)トラーネ134ページ
注270)同上の脚注22、91参照
注271)同上、ゲバウアーの口述、ブリッカの記録とトラーネの資料、その中で彼は彼らがリュンビューに住んでいる3年間、クーラウのレッスンを無料で受けたことを話している。彼の父親、動物画家のC.D.Gebauerはお礼に彼の肖像画を贈った(1828年2月3日付けC.D.Gebauer宛て手紙)(王立図書館)。
注272)DBL8巻1894、102ページ
注273)トラーネ134ページ参照。恐らく正式なクーラウの弟子では無かったであろう。しかし、その家族とは近い結びつきがあり、もしかしたら作曲に目を通すことや指針を与えたかも知れない。(1826年11月12日付けのH.S.レェーウエンスキョルの父から従兄弟のHerman Frederik L.(Fridolin Carlsen)に宛てた手紙)
注274)トラーネ134ページ参照。1829年12月17日付けCourländer宛の手紙でクーラウは言っている、「今後あなたの息子さんが作曲の才能を示したら喜んでその作品に目を通し、私の意見や経験などをお話しいたしましょう。そんなことでお役に立つことができましょう。」(Brvkldb.)
注275)H.V.Schytte: 北欧音楽事典、1巻698ページ
注276)H.C.Andersen: 日記、第3巻296〜97ページ
注277)Bo Bramsen: フェルディナンドとカロリーネ、52ページ
注278)ワイセの手紙、第2巻333ページ、注解228
注279)トラーネの資料、ブリッカの記録
注280)H. Matthison-Hansenの自伝的記録1878(家族の所有)
注281)パウリの口述、ブリッカの記録
注282)当時クーラウは1831年に火災に遭遇したガラス職親方ハルベアの屋根裏部屋(当時は敷地内に他の部屋があるのが一般的であった)に住んでいた。(現・リュンビュウ大通り50の近辺)。モールは「彼は長年フォルトゥーネンから来るとすぐ前のリュンビューのきれいな花のある場所に住んでいた。」と言っている(モールの口述、トラーネ資料)。これは検査官兼薬剤師のブラウの持ち家“田舎の喜び”ボンネビューエン(リュンビューの一区画)のホスト通り7(地図の10c)のことである。ボンネビューエンの建物の登録簿1981年版70〜72ページ、同じく公文書保管人イエッペ・トンスベアの好意的な支援による。付録2を参照。
注283)1826年8月9日付け、ヴィンターからK.Sidenius宛の手紙、ヴィンターの手紙、1巻46〜47ページ、4重唱の曲とは作品82、89の男声合唱曲、ピアノ付き歌曲とはカステリの2つの詩による作品78の歌曲。ヴィンターは男声合唱に熱心で1825年末にシュミット兄弟(ウイルヘルムとカール)、E.F.C.ボイエセン、作曲家H.P.リュンビュで結成した四重唱団の代表者となっている(N.ボー著:クリスチャン・ウィンター、第2巻、22〜23ページ)。クーラウのために歌われた曲は、ちょうどその時期に出版された作品67の男声合唱曲にちがいない。永らく依頼されていた男声合唱曲、作品82を学生連盟に献呈したことにより、クーラウは1828年3月7日、ワイセと共に学生連盟の特別会員に推挙された。(トラーネ、123ページ参照。H.C.A.Lund著:学生連盟史1820〜70年、第1巻、274ページ)。
注284)ピアニスト、クーラウの口述(トラーネ資料)
注285)ヤコブ・トリアーの父(注解172参照)、(J.トリアーの口述、トラーネ資料)
注286)音楽出版社のエミールE.の父親(A.エアスレウ著:デンマークの音楽、125〜26ページ)。
注287)トラーネ資料
注288)ルイーセ・ハイベアー著:回想録、第1巻63ページ、この情景は1827年の夏のことである。(N.ボー著:クリスチャン・ウィンター、第2巻、61ページ)、そして、クーラウの訪問は当時作曲していた「フーゴとアーデルハイド」と関係がある。そのオペラではヴェクスシャル夫人はアーデルハイドを歌うことになっていた。「酔っぱらったことが無い男なんて〜」はJ.PerinetとWenzel Müllerのシングシュピール「新幸運児」1793年、(Das neue Sonntagskind)の中の旋律である。
注289)1826年6月14日付け、ハスハーゲン宛て手紙(王立図書館)
注290)1827年2月17日付け、宛名無しの手紙、しかし内容から見てボイエに宛てたもの(王立図書館)
注291)Teatr. kgl. res. 1827年3月13日、1827年3月17日のCopibog1823〜28
注292)1827年10月10日、コリン宛て手紙(王立図書館)
注293)初演後は10月30日、12月14日(アーデルハイド役はズルザ)、1827年12月27日、1828年1月12日
注294)オーワスコウ第4巻842〜43ページ
注295)1828年2月18日の、ハウク宛手紙(Kap.indk.brv.1828〜30)
注296)1828年2月218日(Cplpr.1828〜30)
注297)1828年5月3日、Dagen
注298)宛名無しの手紙(ただ「A Mademoiselle - -」)1828年(Brvkldb.)これは、当時書かれた唯一の変奏曲、作品91のことについてであろう。クーラウはその翌年、1829年3月21日にレオーニ・ヤコブセンに宛てて「昨年は大変お世話になったことをもう一度お礼を申し上げます」と感謝している(Brvkldb.)。
注299)1829年8月6日付け、マグニソン宛の手紙(Brvkldb.)、その中でクーラウは贈り物の高価なグラスのお礼を述べている。その中には明らかにマグニソンに宛てた領収書が入っていた。そのファンタジーは彼の娘に献呈されたものである。
注300)1828年5月13日、イエーテボリTidningerとプラカード、69ページ参照。
注301)1828年5月18日に彼自身が言っている言葉(1828年5月20日、イエーテボリTidninger)
注302)同上1828年5月30日
注303)注300の如し 
注304)ヴァイオリニスト、C. ブラウンシテインは1818年11月4日コペンハーゲンで演奏会を行っている。(アドレッセ紙、1818年10月29日)
注305)1828年6月3日、イエーテボリTidninger
注306)1828年6月6日、Dagen
注307)P.ハンセン著「妖精の丘」(デンマークの作家Nr.19〜20)。M. Borup著:J.L.ハイベア、第2巻143ページ以降。クロシングのロマンスは「B.S.インゲマンの15の歌」の中にある(N.M.イエンセン著:デンマークのロマンス、99〜100ページ)。
注308)1828年8月29と9月4日付けのハイベア宛の手紙(RA)、更にT. KroghのDMT,17年度、Nr.8、10月号、1942年版を参照。
注309)1828年4月29日付け、ハイベア宛て手紙。アンナ・ヴェクスシャルとC.N.ローセンキレはそれぞれエリサベート・ムンクとビョーン・オルフーセンを演じた。愉快な弦の響き云々の歌詞は1826年の男声合唱曲、作品82の「機会」から作られている。2つの民謡はANRのNr.20と69Bからで、後者は「Dan Konning han lader en Havfru gribe」の歌詞が用いられている。
注310)1828年9月4日付け、ハイベア宛て手紙
注311)1828年9月25日付け、カイパー宛て手紙
注312)王立図書館の手書きのノート337ページ
注313)それ以前に序曲にメロディを用いることは1822年におけるルーズヴィー・ツィンクの(現在失われている)N. Søtofの戯曲『クリスチャン4世の審判』の音楽は、1826年におけるローセンキレの喜劇『友人達の祭り、または遺言』(序曲無しの抜粋中)と共に確かに存在していた。(T. Krogh:クリスチャン王の項目DMT,17年度版,第4巻とN. M. Jensenの「発見と研究」第12章67〜84ページ)。クーラウが王様の歌を序曲の中に用いた直接的な手本はウエーバーが「祝典序曲」(1818年)の最後に「Heil dir im Siegeskranz」(God save the King)を用いたことだった。
注314)1828年10月16日、「至急」と書かれたハイベア宛て手紙(RA)。エリサベート・ムンク(アンナ・ヴェクスシャル)によって歌われるロマンスは、ハイベアはアグネーテ役のJ.L.Pätges(後にハイベア夫人となった)が歌うべきものと考えていた。
注315)1829年1月20日付け、ベーメ宛て手紙(Brvkldb.)。
注316)Dagen紙、1828年11月6日、「第6クラスの階級法による第1位」
注317)Morten Borup著「J. L. Heiberg」第2巻、146ページ、演奏回数は1986年以前のもの。
注318)アドレッセ紙、1828年11月20日,1829年1月19日及び2月13日、その表題は以下のようになっている。「妖精の丘/5幕の戯曲/J. L.ハイベア作/音楽/古いデンマーク民謡を使用/皇太子/フレデリク・カール・クリスチャン/と/皇女/ウイヘルミーネ・マリー/謹んで献呈/Fr.クーラウ/作品100---作曲者自身によるピアノスコア---印刷/コペンハーゲンの出版社C. C. ローセ、価格:5リグスダーラー/硬貨で」
注319)1829年5月5日付け、ヴィトウスキイ宛て手紙((Brvkldb)。
注320)アドレッセ紙、1828年12月27日,コペンハーゲン・ポスト1829年1月5日及び1829年1月8日(歌詞を伴い)、
注321)コペンハーゲン・ポスト、1829年1月9日及び1月13日
注322)Dagen紙、1828年6月22日、
注323)1825年11月5日、劇場宛て、エーレンスレーヤーの手紙(劇場の手紙1796〜1859)。この作品は「肖像画と胸像」と題して出版され、1832年4月9日、ベアグレーン作曲で初演された。
注324)1826年2月26日付け、J.コリン宛て、エーレンスレーヤーの手紙(コリンの資料、206ページ)
注325)1829年2月17日、劇場宛て、エーレンスレーヤーの手紙(劇場の手紙1796〜1859)。
注326)トラーネ、170〜171ページ。劇場資料の中の1829年3月28日の公演。
注327)1829年2月23日付け、劇場からハウク宛の手紙(kap.indk.brv.1828~30)
注328)同上
注329)Copibog1828〜35の1829年3月30日とCplpr.1828~38の1829年4月7日
注330)1829年5月22日付け、ハイベアから劇場宛て手紙,(Teatr.indk.brv.1829~30),この作品は疑いもなく「イサベラ皇女」であり、18291029王妃の誕生日に初演(音楽無しで)されたものである。
注331)Copibog1828〜35の1829年5月30日
注332)1829年1月20日付け、ベーメ(ペータース社)宛て手紙。それ以前の1828年11月24日にはすでに出版が行われたことが知らされていた。更にファランク宛て、1829年3月14日付け手紙。(Brvkldb)
注333)1829年4月25日付け、アンドレアス・クーラウ宛て手紙(Brvkldb)
注334)1829年3月14日付け、ファランク宛て手紙(Brvkldb)
注335)1830年2月6日付け、 同上の手紙(Brvkldb)
注336)1829年12月15日付け、ヴィトコフスキー宛て手紙(トラーネ資料とBrvkldb)
注337)1830年2月6日付け、ファランク宛て手紙。この中で作品109の3曲のロンドが言及されている。
注338)1829年5月5日付け、ヴィトコフスキー宛て手紙(Brvkldb)。クーラウはピアノ・カルテットしか作曲をしていないが出版の費用はヴィトコフスキーからもらっていない。それは確かにクーラウがヴィトコフスキーのいろいろな要求に少ししか応じなかったからであり、二人の関係は消滅したように思われる。(1829年12月15日付け、ヴィトコフスキー嬢宛て手紙)

 

略語解説
Kap.indk.brv.:宮廷楽団往復書簡
Teatr. indk. brv.:王立劇場往復書簡
Cplpr.:宮廷楽団記録簿
Copibog:劇場理事から出された手紙のコピー記録
BKh:べートーヴェン会話帳
Brvkldb.:クーラウの往復書簡