CUSTOSにIFKS出版の「ピアノソナタ曲集」紹介の記事

    デンマークにCUSTOSという音楽雑誌があります。2013年6月号にピアノソナタ曲集が紹介されました。
    執筆者はゴーム・ブスク会長です。
    Tidsskrift for tidlig musik Nr.2 Årg.11 - Juni 2013 Pris: 75 kr.
    「中世音楽のための雑誌」第11年度版 第2巻 2013年6月 75クローネ
    この号の11~13ページに掲載されています。(A4版)

    tidligはデンマーク語で「早期の」という意味ですが「中世」と言う意味も有ります。ルネッサンス時代、バロック時代を指します。しかし、この雑誌は時にはクラシック時代、初期ロマン派の事柄も取り挙げるするそうです。そなこともありクーラウのピアノソナタ曲集が掲載されました。


      表紙

                        
       


      クーラウのピアノソナタ曲集
      新刊
      ゴーム・ブスク

      クーラウ:ピアノ・ソナタ集I~IV。ハンナ社より出版されたインターナショナル・フリードリヒ・クーラウ協会原典版。ゴーム・ブスク/石原利矩共著。各128、124、128,136ページ。インターナショナル・フリードリヒ・クーラウ協会より委託されヘルエ・シュレンカート社(Lidsøvej 71, DK 2730 Herlev, schlenkert@12move.dk ) が販売。各巻250クローネ(税込み)。全巻900クローネ。

       フリードリヒ・ダニエル・ルドルフ・クーラウ(1786年9月11日、北ドイツのユルツェンで生誕。1832年3月12日、コペンハーゲンで没)は軍楽隊の家系に生まれた。9歳の時、事故により右目を失い、永い療養中にベッドの上に持ち込まれたクラヴィコードによって音楽への興味を示した。1802年頃、家族はハンブルクに移住し、クーラウはここで音楽の修行をする。1810年にコペンハーゲンまでの演奏旅行を行い、ここに移住して生涯を送る。彼の作品は殆どがデンマークで作曲されたことにより、彼はデンマークの作曲家と見なされている。1813年に宮廷楽師に任命されるが、1818年になって初めて少額の年俸が与えられる。
       数回の演奏会でピアニストとして登場した後、特にピアノ曲やフルート曲を作曲した。そのため彼はプロフェッショナルのフルーティストだと信じられたがこれは誤解である。自身では「運指さえおぼつかないが、この楽器についてはよく理解している」と言っている。1本、2本、3本、4本のフルート、フルートと弦楽器、フルートとピアノの作品は、彼をして「裁縫師が誂えた如く」と言わしめるほどで、最良の最も楽器のことを知っている作曲家と見なされた。彼のピアノ作品(4手用も含め)は、フルート作品よりも数は多く、当時のジャンル(変奏曲、ロンドなど)の中にソナタがあり、その内の有名な現在出版されているソナチネがある。そのため彼は「ソナチネのクーラウ」と特徴づけられ評価されている。
       彼の音楽は、はるかに高いところにある。例えばコペンハーゲンの王立劇場に提出の義務を負い、喜んで作曲したオペラや演劇付帯音楽(劇場音楽)である。それは5つのオペラと3つの演劇付帯音楽である。その内、『盗賊の城』1814年、『魔法の竪琴』1817年、『ルル』1824年、ロマン的演劇『ウイリアム・シェイクスピア』付帯音楽1826年、そしてデンマークやスエーデンの民謡を基にした『妖精の丘』1828年がある。後者は彼の最大の成功作であり、最も知られたものである。これは今日までに1000回以上の上演が行われて、デンマーク音楽史に記されるものとなった。
       クーラウは部屋が狭くなった関係から1826年、家族と共に賃貸料の安いコペンハーゲンの郊外、リュンビューに転居した。そこで彼の家は火災で焼失する。クーラウは殆どがオーストリア、ドイツであったが国外旅行を行った。オーストリアでは1825年モーツァルトと同様に尊敬しているべートーヴェンに面会した。彼の音楽はデンマークの音楽の伝統を推し進めたが、その様式が国際的であったことに重要な意味がある。彼は他の作曲家を踏み台にしたことを特徴づけられるが、しかし自己の個性を損なうものではなかった。

       デンマークの作曲家でクーラウがピアノ作品を最も多く作曲した作曲家だと言ったら多くの人は驚くに違いない。確かに彼の名前は、その楽器のために書かれた最上のものに属す多くのフルート作品(その他に『妖精の丘』があるが)と結びついている。勿論、彼はそのピアノのソナチネで同様に知られている。ソナチネは昔からピアノ音楽の中で確固たる地位を築き、外国ではH. C. アンデルセンとその童話が有名になっている程に知られている。
       しかし、私の日本人の友人でありクーラウの深い理解者・石原利矩氏と協力して上梓した上記のクーラウ「ピアノソナタ曲集」の出版は、今までのものと全く異なるものであり、小規模なソナチネを知っている大多数のピアニスト及び音楽界では殆ど知られていないものである。これに含まれているものはクーラウの大きな正統なソナタで、特に若い時期の大規模な技巧的なものがある。
       4巻の曲集の内、第1巻から第3巻まではそのようなソナタに属し、第4巻の7曲は小規模で難易度もそれに相応しいものである。それよりも幾分大きめでレッスンに用いられているソナチネ(作品20、55、59、60、88)もあるが、すでにデンマーク国内及び国外で数多く出版されているのでこの曲集に収めていない。 
       クーラウの作曲スタイルが、大規模で難しいものから小規模で易しいものへと展開したことは、当時の他の作曲家クレメンティ、デュセック、クラマーの作品のように技巧的な華美な様式と反対の方向となるものであった。ハイドン、モーツァルト、特にべートーヴェンが彼の模範であった。
       この特異な逆行の過程を説明するのは難しくはない。すなわち出版社の圧力である。クーラウの若いときの作品を多く出版したライプツィッヒのヘルテル(ブライトコップフ&ヘルテル)と同様コペンハーゲンのC. C. ローセは手紙でこう言っている。「大きなソナタは時代遅れだ」と。クーラウの手紙の中では彼は嘆いている。例えばヘルテルやペータースには彼が1815年に作品16として作曲した変ホ長調のソナタの出版を断られ、ベーメやネーゲリにも断られたことを。これは1833年になって初めてローセ社とパリのファランク社から作品127として出版された。
       しかし、クーラウは小規模な作品を作曲することを納得した。1819年にクーラウはヘルテルに「4曲の小さな作品」を送っている。その2年後に「易しいピアノ作品を先ずご用意いたしましょう」と言っている。ヘルテルを訪問後、「貴殿のところで楽しく過ごした時間は快適だっただけでなく、いろいろな観点で私にとって大変有益なものでした」と書いて、「ここに1曲の小さいソナタ作品34を先ずお送りします。貴方の望んだとおりの易しく且つ好もしいものです。これと同様な作品をすぐにも沢山作曲するつもりです」と結んでいる。(この作品34は第4巻に収録)。
       クーラウの卓越した能力からして、大規模で緻密で複雑な作曲技法から小規模な簡単なものに順応することは難しいことではなかった。しかし、彼は自信を持って作曲した若い時代のソナタが認めてもらえないことに不満だった。1830年に出版される予定の音楽事典の著者、ブレーメンの音楽学者ミュラーからクーラウ自身のこと、作品のことを訊ねられたときに次のような幾分手厳しく書いている。「貴方はお手紙の中で、私の作曲した初心者や中級者のための小規模な作品だけを言及しておりますが、私はその他にも立派なピアノ奏者のために書いた大規模な様式の作品が沢山あるのです。」 本出版は正にクーラウの希望に沿ったものとして上梓された。クーラウ時代の初版の「初めての再版」を編集の基本としている。その他に、ソナタの中で自筆譜が残っている唯一の作品16/127の一部分も掲載している。

      19曲のソナタは以下のように編集されている。
      第1巻:3曲のソナタ、イ短調、ニ長調、ヘ長調 作品6a。変ホ長調 作品4。
      作品番号は年代順とは限らないし、同じ番号で複数の作品がある場合がある。
      第2巻:ソナタ ニ短調 作品5(a)、ソナタ ニ長調 作品(6b)---(ヴァイオリン・アド・リビトゥム)、ソナタ イ短調 作品(8a)、ソナタ 変ホ長調 作品(16/127)。
      第3巻:3曲のソナタ、ト長調、ハ長調、変ホ長調 作品26、ソナタ 変ロ長調 作品30。
      第4巻:ソナタ ト長調 作品34、3曲のソナタ、ト長調、ニ短調、ハ長調 作品46、 3曲のソナタ、ヘ長調、変ロ長調、イ長調 作品52。

      いくつかの譜例:
       クーラウの作曲技法には他の作曲家の作品を足がかりにした「モデル・テクニック」で書かれたものがある。盗作と言われるものではない。例えばハ長調のピアノ協奏曲は同じ調性のべートーヴェンのピアノ協奏曲第一番に酷似している。

       イ短調ソナタ 作品6a-1はモーツァルトのピアノソナタ(K.V.310)の左手の反復音型と同じである。

      〜楽譜〜 Sonate Op.6a-1

       ニ長調ソナタ 作品6a-2の緩叙楽章に音楽史的に驚くべきことが見られる。それは「L. H. Solo」すなわち「左手のソロ」とあり、左手だけで演奏する曲として史上最初のものである。これはハイドンのピアノ三重奏曲 変ロ長調(Hob. XV/20)の緩叙楽章(ト長調)の中に左手だけの部分があるが、疑いもなくクーラウはこれからアイデアを得たのだろう。左手の音楽の専門家Hans Brofeldt氏の助言は上記の考察と異なる立場にある。作品6aの3曲は1808〜1010年の間に生まれたものである。

      〜楽譜〜 Sonate op.127 (訳者注:12ページはクーラウの自筆譜、13ページは本曲集の楽譜)

       小規模のソナタに取り囲まれてはいるが、変ロ長調のソナタ(Op.30)はクーラウの作品中最も長いものである。彼は当時の周りの音楽をよく知っていて、このソナタはその調性の当時の説明できない大ソナタの伝統の一例として挙げられる。すなわちクレメンティ(Op.46)、クラマー(Op.42)、べートーヴェン(ハンマークラフィーアOp.106)、シューベルト(D.V. 960)などである。

       ニ短調ソナタ 作品46-2はゆっくりな序奏(4/4拍子)、速い展開部のないソナタ形式(2/2拍子)、速い部分の主題をニ長調に変えた短いラルゲットの部分(6/8拍子)、プレスティーシモの技巧的な部分で構成された一楽章形式「ファンタジー・ソナタ」である。

       表紙は石原愛美が描いたもので、4巻のそれぞれを横に並べるとニューハウンの美しいパノラマが現れる。ニューハウンの左側の一番高い建物(第1巻)の2階でクーラウは没した。この建物のレストランの上の壁に「作曲家フリードリヒ・クーラウ 妖精の丘 1832年ここに居住」と書かれたレリーフがある。

       本書には興味深く非常に多彩なソナタがあり、1800年代初頭のピアノ音楽の価値ある文献として寄与するものである。

      訳者注(以下ゴーム・ブスクと石原利矩の経歴であるが省略する)
      訳:石原利矩
      2013.6.25


       なお、クストスとはラテン語で「後見人」「保護者」「守護者」などの意味があります。音楽ではグレゴリア聖歌やバロック音楽などで見かけるものですが、楽譜の最後の小節の一番右側にゴミみたいに付いている記号です。上記の表紙の絵のCUSTOSのSの右側に書かれている形です。これが五線の様々な高さにおいて現れますが、これは次の(すぐ下の)五線の最初の音の高さとなっています。現代では廃れたものですが、何故、用いられなくなったのかを考察することは興味あることです。昔の人は親切だった?昔の人の「眼の運動速度が遅かった」?などと言うことがこんなところから学問的に証明されることはないでしょうね???(石原・記)2013.6.19 / Tidligの意味を誤訳をしていました。Custosが雑誌名になっている事が理解できました。訂正してお詫びを致します。2013.7.1