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IFKS第17回定期演奏会
プログラムノート(石原利矩)
「クーラウの波紋」
水面に石が投げ込まれると広がる波紋・・・この波紋はクーラウの場合いろいろな場所で起きました。第1の波紋はユルツェンで 、第2の波紋はハンブルクで、第3の波紋はデンマークで。そして今や日本にも波紋が広がっています。
今年10月ユルツェンにおいて第13回インターナショナル・クーラウコンクールが行われました。ご存知のようにユルツェンはクーラウが生まれた北ドイツの町です。クーラウ・コンクールはユルツェン市において1970年に 「市政700年 」を記念して第1回が行われてから10年後の1980年に第2回、この年から2001年まで3年毎に 、それ以降2年毎に行われているものです。私事になりますが私がクーラウを調べ始めたのが1986年で、ちょうどこの年第4回のコンクールが開催されていたのでした。当時日本には全くこのニュースは流れてこない時代だったのです。そんなコンクールが行われているとは全く知りませんでした。第5回のコンクールが行われた1989年にちょうどデンマークに行く予定にしていた時期にコンクールがあることをブスク氏から知りその帰り道にユルツェンに立ち寄りました。その時の審査員はペーター・ルカス・グラーフ、リヒアルト・ミュラー=ドンボワ、エーバーハルト・グリュネンタール、ガビー・パスヴァン・リエ、ロスヴィタ・シュテーゲ、トレーヴァー・ワイ、デイヴィド・ミルデでした。それから20年後の今年 、私がこの審査員に選ばれるとは当時夢にも思っていなかったことです。東京で10年前に水面に投げかけたインターナショナル ・フリードリヒ ・クーラウ協会の波紋が広がったからなのでしょう。IFKSの活動は第4の波紋と言えるかも知れません。
さて、それでは第3のデンマークの波紋についてお話ししましょう。クーラウの初期の作品(Op.1,2,3,4,5b,6b,7,8b,10b,11bハンブルク時代作曲)以外は殆どデンマークに移住(1810年12月)してから作曲されました。1814年の『盗賊の城』で確固たる作曲家としての地位を築いたクーラウは22年間をデンマークで過ごすことになります。劇場作品で当時の主要な作品を王立劇場に提供したことも重要なことです。1824年初演のオペラ『ルル』は劇場のドル箱演目となりました。さらに1828年の『妖精の丘』は最も成功した作品です。1810年代から1830年代まで当時の音楽界をリードした重要な作曲家としてクーラウとワイセが挙げられます。その後に続くハルトマン、ゲーゼに与えた影響は大です。それは後にランゴー、ニールセンなどに引き継がれデンマークの音楽史が作られていきました。
本日は前半をクーラウのピアノ作品、後半をクーラウの波紋を浴びた作曲家たちのフルート&ピアノ作品でお聴きいただきます。
今日の「10曲のワルツ」DF211および「ピアノ・ソナタ」Op.5aは1811〜12年に作曲されたものです。「10曲のワルツ」は絶版になっているので殆ど知られていませんが可愛いワルツ集です。10曲全て速度表示はありません。テンポは曲想に応じて演奏者に任せられています。1曲目のワルツはAry van Leeuwenの編曲でフルートの小品として出版されているのでご存知の方もいらっしゃるかも知れません。全曲演奏は今日が本邦初演です。
クーラウのピアノ・ソナタ(ソナチネを含む)作品には大規模なものと小規模のものがあります。大規模のソナタは比較的初期に集まっています。[Op.4,5a,6a (3曲),8a,127 (没後出版されたのでこの番号になっていますがそもそもはOp.16として作曲されました),30]。そしてこの作品群こそがクーラウが自発的に作曲したピアノ作品なのです。その他の小規模のソナタ 、ソナチネは殆どは出版社の依頼で書かれたものといってよいでしょう。ピアノ作品においてもクーラウの経済的逼迫が影響したことが伺えます。クーラウのピアノ作品はソナチネや小規模な作品のいくつかは再版されていますが大規模の作品はいまだに絶版となっています。もちろん今日のOp.5aも絶版を免れていません。この曲も本邦初演です。
この二つの異質な作品が同じ時期に作曲されたことも興味あることです。
後半のフルート&ピアノ曲はクーラウと同時代に生きた作曲家たちの作品です。
フローリッヒは音楽家の家系に生まれ多彩な音楽的才能を持っていました。8歳にしてフルート、ヴァイオリン、ピアノを公に演奏をし、15歳で王立楽団のヴァイオリン奏者(見習い)、18歳の時にはシュポアのコンチェルトを演奏。30歳でコンサートマスターに就任。1823年には弦楽四重奏曲で作曲家として登場しています。クーラウに作曲を教わったのは1817年頃のゲネラルバスのグループレッスンではなく王立劇場のヴァイオリン奏者見習い時代です。1829年にフローリッヒが外国旅行をする際、クーラウはカッセルで活躍していたシュポアに紹介状を書いています。この旅行中フローリッヒがパリで作曲したもの(第3、第4楽章1829年11月20日作曲)が今日演奏するフルート・ソナタです。この曲は出版されておらず、デンマーク王立図書館に保存されています。そもそも4楽章のソナタです。フルートのパートは全楽章揃っているのですがどうしたわけかピアノパートが3楽章と4楽章しか無いのです。このピアノ譜には当時の王立楽団のフルート奏者、N.T.ブルーン、N.ペーターセン、F.フローリッヒの3人の献呈されています。「あなた方はこのページいっぱい細かく書かれた五線紙が読めますか?第1楽章のアレグロと第2楽章のアダージオは次の機会に到着するでしょう。どうぞしばしば演奏してください。」とあります。現存するパート譜から分かることは第1楽章8/6ハ短調Vivace, 第2楽章2/4ト長調Andante con Variationiです(アダージオではありません)。この二つの楽章の作曲日が1830年12月、ミュンヘンと記されていることからフローリッヒは先に第3,4楽章を作曲し、1年後に第1、第2楽章を作曲したことが分かります。いずれ発掘を期待して、今日はピアノ・パートが現存する二つの楽章をお聴きいただきます。本邦初演です。
ワイセはクーラウと同様ドイツ人でクーラウがデンマーク移住した時はすでにコペンハーゲンで作曲家として活躍していました。彼は生涯ベートーヴェンの音楽は野性的であるとして受け入れることができなかった人です。それに対してクーラウはべートーヴェンを尊敬していてその影響は彼の作品に非常に強く現れています。二人は当時の音楽上の保守派と進歩派の論争のシンボルとなりました。本人同士は決して対立をしていたわけではないのですが、それぞれの様式の違いによってその取り巻きたちが騒いだ結果なのです。ワイセはクーラウと同様いろいろなジャンルで作品を残した作曲家ですが室内楽作品は多くありません。フルート曲は知り合いの宮廷造園師J.Pペーターセンのために1837年に作曲したこの1曲しかありません。ペーターセンがアマチュア・フルーティストであったのかは詳らかではありません。
ワイセはデンマーク音楽史でクーラウと並んで重要な役割を果たしましたが、現在はデンマーク人が今でも愛唱する歌曲を沢山作曲していることによって忘れ去られていません。クーラウの影響は受けなかったとは言え、クーラウの波紋をまともにかぶった作曲家と言うことができます。
ハルトマンは1805年生まれ1900年没と言うずいぶん長生きをした人で、デンマークの音楽史で重要な人物です。音楽家の家系に生まれ、オルガン、ピアノ、ヴァイオリンを父親の手ほどきを受け、後にワイセに作曲を師事しました。「自伝」の中でワイセとクーラウのことを次のように述べています。
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