トーケ・ルン・クリスチャンセン氏、クーラウを語る

 

デンマーク国営放送の [KLASSISK MUSIK] 2004年7/8月号掲載インタビュー記事


[KLASSISK MUSIK] 2004年7/8月号表紙
本文中オペラ『ルル』のチラシが掲載


DR記事(福井信子訳)

番組担当 ニーナ・エーロム記

フルートのクーラウ ― 今日本語で

 トーケ・ロン・クリスチャンセンは、デンマーク放送交響楽団のフルート奏者として活動する一方、1990年にクーラウのフルート曲録音を開始し、このほど全曲録音を終えたところである。この取り組みによりクリスチャンセンは、ドイツ生まれのデンマークの作曲家クーラウとより深く根本的に関わるようになり、さらに、クーラウが驚くほどの人気を博している日本へと招かれることにもつながった。

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 チボリ鼓笛隊の一員であったまだ子どものクリスチャンセンが、クーラウのフルート曲を最初に演奏したのは何と洗面所であった。休憩時間になると、クリスチャンセンと仲間のトマス・イェンセン(現在は南ユラン交響楽団のフルート独奏者)は、静かなところで練習したいと思い、それには洗面所が適していたので、2人はよくそこにこもりクーラウの曲などを譜面台に立てて練習した。

 「楽器がまだあまりできないとき先生から二重奏曲をもらうことがよくありますが、実際には、技術的にしっかりしていないと二重奏曲をきちんと演奏することはできません。何とか頑張ろうと、私たちは懸命に練習しました」とクリスチャンセンは思い出を語る。

●クーラウのすべて
 「クーラウに特徴的なことは、理想がとても高く、大変な能力の持ち主だということです。形式面の修得は完璧でした。それほど見栄えのしない小品を作曲するときでも―フルート二重奏曲は一応そのような装いをとっていますが―、クーラウは展開部、再現部、コーダを持った大きな形式を使っています。子どもだった2人にはもちろんそれを見通すことはできませんでしたが。フルートを持ちながら譜面をめくるのは容易ではありませんでした。譜めくりで中断する度に2人の声部が離れてしまい、いつも最初からやり直さなくてはなりませんでした。とても苛立ったことを思い出します。当時はクーラウの音楽にかなり苦労したと思います」。クリスチャンセンはこう語り、笑いを浮かべる。自分の言葉が逆説的だということを十分に承知して。

 今日、クリスチャンセンはクーラウ解釈において世界の第一人者と見なされている。クーラウのフルート曲全曲を録音した最初のフルート奏者である。1990年に始まりこの夏にプロジェクトは完結した。

 今クリスチャンセンの書斎の机には15枚のCDが積み上げられている。その山を軽くたたいてから、そこにいたるまでのこと、それ以降の経験について彼は語ってくれた。

●長く楽しいプロジェクト
 クリスチャンセンが最初にクーラウの曲を録音したときには、それから何年にもわたって繰り返しスタジオに戻り、フルートが関係するクーラウの室内楽曲60曲をすべて完全に録音しよう、などという計画があったわけではなかった。

 「それがだんだんプロジェクトとなっていき、終わってみれば、私はゆっくりと取り組んだことになります。最初に録音したのは、フルート曲だとはっきりわかるソナタや四重奏曲で、その後それ以外のものも取り上げていきました。平均すると年に1つの録音というペースで、最初から最後まで楽しい活動でした。とくに多くの様々な音楽仲間と共演できたことが、その大きな理由です。ピアノは一貫してエリサベト・ヴェステンホルツに弾いてもらいましたが、フルートはそれぞれの録音のときにいろいろな奏者と共演しました―その時コペンハーゲンにいて、一緒に演奏したいと思ってくれまたその時間もある人、ということで演奏者は決まりました」とクリスチャンセンは言う。

 最後のCDがちょうど出たばかりである。この二重奏曲を集めたCDでは、放送交響楽団の同僚ミカエル・ベーラーが共演している。

●世界で最も演奏されている四重奏曲
 少年の頃クーラウを「厄介な」作曲家だと思ったにせよ、CD録音プロジェクトに入るかなり前から既に、クリスチャンセンのクーラウに対する見方は変化しており、好奇心を持ってクーラウの音楽にのめりこみ始めていた。1970年には3人の同僚と四重奏団を結成している。

 「まぎれもなくクーラウが私たちのレパートリーの中心でした。彼は大きな四重奏曲を書いており、4本のフルートが使われるとき演奏されるのはたいていこの曲だと考えていいほどです。世界のどこでもそうでしょう。クーラウのフルート四重奏曲は、デンマークの室内楽として最も演奏される機会の多い曲ということで、群を抜いています。チャイコフスキーでさえサンクトペテルスブルグでこれを演奏したことがあると言われています。その一方でクーラウ自身は、ピアノの方が得意なものですから、ほとんど演奏しませんでした」とクリスチャンセンは語り、クーラウがそもそもフルートに触れたことがあるのかどうかさえ確かではないのだと付け加えた。

 ドイツ側の資料によれば、クーラウは次のように発言したことがあるという。「私は(ピアノ曲のほか)フルートのためにもかなり多くの曲を書きました。そのため外国では私のことをフルート奏者と思っている人が多くいます。作曲家事典でも、デンマーク王に仕える首席フルート奏者だと書かれているそうです。でも実はフルートの指の運び一つできないのです」。

●食べていくため
 では、クーラウは自分がまったく知識を持たない楽器のために、なぜこれほど勤勉に作曲したのであろうか。

 「必要に迫られていたからです。クーラウは1810年にドイツからデンマークへやって来ました。20代の終わりのときです。生涯独身でしたが、家族までデンマークの彼のもとへやって来てともに暮らすようになりました。ですからお金を稼がなくてはなりませんでした。オペラやジングシュピールの作曲家としては仕事はわずかしかなく、報酬もよくありませんでした。その代わり、クーラウはイギリスおよびフランスの出版社とつながりを持っており、その両国ではフルート曲がよく売れていました。フルートはプロ・アマを問わず人気のある楽器でしたから。小さな楽器は持ち運びが簡単で、覚えるのも比較的時間がかからなかったからです」とクリスチャンセンは語る。

 クーラウのフルート作品の質については、常に議論されてきた。明らかに食べるために作曲しているからである。だがクリスチャンセンは次のように断言する。

 「私の経験からして―フルート作品をすべて演奏した今こう言うわけですが―、クーラウのフルート曲は確実に質を保っており、クーラウの音楽言語の特徴を示しています。彼の音楽は、形式的に正確であり非常に一貫しているという点で、私はハイドンを連想します。同時にきらりとした目の輝きがあるのです。けれども何か強い感情的なものはありません。クーラウは、モーツァルトやベートーベンのような大作曲家ほどには、人の心を深くつかむことがありません。そしてクーラウが自分の理想として名前を挙げているのは、ハイドンではなくこの2人の巨匠なのです」。

●甘美
 14年間クーラウ作品を定期的に録音している間に、クーラウに対する自分の態度はなおいっそう肯定的になっていった、とクリスチャンセンは語る。

 「今では彼のことがもっとよく理解できます。底に流れているユーモアなど。それから旋律の甘美なところ、人々がただ敬服していないというだけで、実に甘美なものがあります。クーラウの場合、乾いた演奏というのではなく、形式的な面をしっかりと保持して演奏すべきです。ドラマチックな箇所にどれほどのエネルギーを投入するかという問題です。大作品として奏すれば、大作品になる。クーラウはそういう作曲家です」。

 けれども本当の大作品には決してならない、少々間をおいてからクリスチャンセンは言葉を続け、だから、すぐにクーラウの曲だとわかるのだと語る。

 「とはいえ、クーラウを特徴づけているものは、特別な甘美さです。でもそれは同時に彼のアキレス腱にもなります。時にはあまりに甘美すぎることもあり、多くの人が眉をひそめます。クーラウは決して不協和にならないのです、今日の西洋世界では、不協和であると同時に和声的であることが芸術に求められています」。

●日本が関心を寄せるクーラウ、およびトーケ
 デンマークの文化ともクーラウのドイツ=デンマーク的文化ともかけ離れた世界では、状況は異なるようである。たとえば日本で、クーラウに対し大変に関心が高まっている。現在クーラウを最もよく演奏しているのは、おそらく日本人ではないだろうか。それはまさにクーラウの表現が限定されていることによるのではないか、とクリスチャンセンは考える。

 「作曲家としてクーラウは極限まで進むことは決してありません。その点が、すべてが非常に制御されている日本のような文化に訴えるのではないかと思います。たとえば日本の能舞台のことを考えてください。

 クーラウの人間性も日本人に感銘を与えています。作曲家として彼は大きな道具を修得しました。立派に教育をうけ、書こうと思えば、交響曲やオペラを大量に書くこともできたわけです。でも彼はそうしませんでした。弦楽四重奏曲を多数作ることもできたわけですが、彼は1曲で満足しました。そしてどうしたかというと、フルート二重奏曲を書いたのです…ここ西欧では私たちはすぐにこう考えます。『何てばかなやつだ、どうしてもっと自分の名を高めるようなことをしなかったんだろう』。でも日本ではこう言われます。『偉大だ、実に偉大だ』。クーラウには何か禅仏教に通じるようなものがあると感じ、それが日本人を魅了するのです」。

 クリスチャンセンが日本でのクーラウに対する関心に気づいたのは、1990年代の半ば、東京の石原氏から問い合わせを受けたときである。石原氏はデンマークを訪ね、クーラウの専門家であるゴーム・ブスク博士に面会する予定であった。クーラウ作品を録音しているフルート奏者として、石原氏も既にクリスチャンセンの名前を知っていたので、その際ぜひ挨拶をしたいと考えたのである。こうして二人は食事を一緒にする約束をした。

 「そして石原氏はデンマークに現れました。ネクタイとスーツを身につけて。明らかにこの機会を特別に考えているのだということが私にも伝わってきました。クーラウの国の人のところへ来たのだというお気持ちがあったのでしょう。私は会うまで少しもそんなふうには考えていなかったのですが、石原氏の態度から、すぐにそのようなことを感じ取り、理解しました。その最初の訪問の後、またすぐに石原氏はフルートのお弟子さんたちを連れて東京からやって来ました」とクリスチャンセンは語り、その日本人の一行と最初に対面したときのことを振り返りながら、満面の笑みを浮かべた。

●2階建てバスにいっぱいの日本人
 「彼らはデューアヘーヴェンで上演されるクーラウ作曲の『妖精の丘』を見ようとしていました。石原氏から、ヴァルビューの私の家を訪ねてもよいだろうか、と問い合わせがありました。約束の日に家の前に大型の2階建てバスが停まりました。予め石原氏から、大勢なので、昼食をご馳走になることはできない、ということは聞いていました。そして確かにバスには大勢の人が乗っていました。お弟子さんたちのほかに、専門のフルート奏者、インターナショナル・クーラウ協会の大勢の会員の方がいました。彼らは列を作って並び、まず私に記念のプレゼント、そして庭を歩き、飲み物を口にし、またバスに戻っていきました。この交流会は1時間とかからずに終わりました。クーラウの曲を録音している私がどんなふうに暮らしているのか、ともかくそれを見ようとした、ということなのでしょう」。

 このデンマーク訪問の後、石原氏はクーラウのオペラ『ルル』を日本で上演したいという考えを抱くようになった。そして2000年に東京で演奏会形式で上演されたとき、クリスチャンセンは招かれ共演した。それ以来、日本のフルートの学生たちは、レッスンを受けにデンマークを訪れるようになり、またクリスチャンセンの方もクーラウに焦点をあてたマスタークラスを開くため、日本を訪れている。

 「ある意味では、日本人がなぜクーラウに関心をもつのか理解しにくい面もあります。でも一方で、フルートに対する関心が日本では全般的に高いことの表われではないかと思います。百万人以上の日本人(編集部注:1億2600万人の人口のうち)がフルートを演奏しています。フルートは彼らの文化や歴史にうまく合い、日本人の心に深く入り込んでいます。日本の地図を見ると、島々が竹の節々のように並んでいますが、それはちょうど、つながってフルートになるかのようです」。

●東京でルル
 日本でクーラウがこれほど人気があることについて、その功績の大半は石原氏にあると、クリスチャンセンは語る。石原氏、および日本で設立されたインターナショナル・クーラウ協会は、真に熱い心のほとばしりだと言える。彼らはプロとアマチュア両方のために、クーラウの演奏会を開き、またクーラウの全作品を非常に立派な版で出版しつつある。そして最近では、石原氏とクーラウ協会は2005年6月にルルを大舞台で上演する計画を決定した。チラシは既に印刷されており、当然のことながら、この東京での演奏者のなかにトーケ・ロン・クリスチャンセンの名前も見られる。

Toke Lund Christiansen The Magic Flutist of the Oper "LULU"


補記:
■デンマーク語の日本語表記は複雑です。混乱していると言ってよいでしょう。これほどやっかいな外国語はあまりありません。デンマーク人の発音に近く「Toke Lund Christiansen」を表してみると「トーク・ロン・クリスチャンスン」となります。例えば「Andersen」をアンデルセンと読むのはドイツ語から来ています。デンマーク人の「Andersen」の発音は「アナスン」が最も一般的です。
■本文中「チラシは既に印刷されており」と書かれていますが、これは仮チラシで正式なものではありません。
(記:石原利矩)