クーラウをめぐるいくつもの奇蹟 (海老澤 敏)


 

オペラ『ルル』プログラムより

2005年6月4日
東京文化会館大ホール

 


クーラウをめぐるいくつもの奇蹟
海老澤 敏

インターナショナル・フリードリッヒ・クーラウ協会(IFKS)名誉理事


 誰しも生涯に出会った作曲家、そしてその作曲家の作品に対しての思い出がある。フリードリヒ・クーラウの場合、このドイツ 語名の作曲家の場合、筆者のそれは、音楽の手始めをピアノという楽器の手習いから始めた数多くの子供たち、少年少女だちとまっ たく同様に、古いペテルス版、ないしその海賊版ともいうべき音楽之友社版、あるいは全音楽譜出版社版の『ソナチネ集』第一巻 に収められていた彼のやさしいソナチネを弾いたことだった。そのソナチネの作者の名前はただ<クーラウ>とだけ覚えていて、ずっと後になるまで、苗字以外はフリードリヒだか、フランツだかも知らないのであった。モーツァルトにも、クレメンテイにも同じようなソナチネがあったので、どれも区別なしにただやさしい、つまり自分でも弾けるような曲をピアノ用に書いた音楽家だとの第一印象だけが、青年になるまでの私の貧しく乏しい知識であったのだ。
 しかも、そのうちに<クーラウ>のほかに<クーナウ>なる作曲家の名前も出て来て、初めは二人の名前さえ混同する体たらくだった。後者ヨハン・クーナウが、前者より一世紀以上も昔のバロック時代の音楽家で北ドイツで鍵盤楽器の巨匠であり、前者はクレメンテイやモーツァルトよりもかなり後の音楽家で、またベートーヴェンよりもかなり後輩ではあるが、およそ同時代に活動時期をダブラセているといった知識は、大学生の頃、音楽史を勉強してようやく理解が可能となった程の無知ぶりであった。
 ただひとつ、その筆者が青年学徒だった頃から記憶に留めていたエピソードかおる。それはベートーヴェンの評伝として古典的な文献であるアレグザンダー・ウィーロック・セイヤーの『ベートーヴェン伝』を読んだ時、そこに記述されていたこの巨匠とクーラウの出会いの場面であった。
 ベートーヴェン伝記家イゲナーツ・フォン・ザイフリートが語るその挿話によると、1825年、クーラウはウィーンにベートーヴェンを訪ねた。二人は友人たちと連れ立って郊外の散策を楽しんだ。巨匠は皆に丘のぼりなど野外の闊歩の仕方を熱心に教え込むのだった。夕方、とある宿で彼らはディナーをとり、シャンパンの飲み放題であった。ベートーヴェンの家に帰っても、彼らは赤のフェースラウアー酒を飲み合い、大いに盛り上がったという。ベートーヴェンも度が過ぎる程飲みつづけるのだった。彼は会話帳にB-A-C-H(変ローイーハーロ)の音形に始まる動機を書き込み、そこに<Kühl,nicht lau >(<冷えていて、生温くはないぞ>)と歌詞をつけ加えるのだった。デンマークからやって来た音楽家の名前(Kuhlau)を入れたちょっとした遊びだった。翌日、クーラウは友人に、どうやって帰宅してベッドに入ったものか覚えていないと打ち明けている。ベートーヴェンもこの遠出に参加したホルツにクーラウ宛の手紙とそのカノンを手渡しながら、自分もどうやって家に帰り、なにを書いたかも覚えていないと語っている。そのカノンは<WoO 191 >の番号を持つ三声の12小節の曲である。これはベートーヴェンがクーラウがバッハの名で即興的にカノンを作曲したのに対する返礼なのであった。ベートーヴェンがこの遠来の客が気にいったのにちがいないというエピソードではある。
 そのクーラウを、私たち後世人はやがて次第に忘れて行ってしまった。その事由についてはさまざまなことが考えられる。彼はドイツ生れではあるが、デンマーク人であった。時は18世紀末から19世紀前半、ようやく国民楽派の運動が高まって行く、後期古典派=初期ロマン派の時代の人であった。ドイツ中心のこの時期の西洋音楽史の流れの只中で、彼はいわゆる周縁の人であった。さらにクーラウは当時そうした存在はなお数多かったとは言え、ピアニストであり、そして作曲家であった。彼のかなり夥しいとも言える作品は出版されたとは言え、やがてほとんど忘却の淵に沈んで行ってしまったのだ。いわゆる<小巨匠>の運命を、彼クーラウは、他の多くの作曲家たちと共有してしまったと言うべきであろう。彼クーラウのいくつかのピアノのためのソナチネが、初心者用のピアノ・アルバムの中に掬い上げられ、しかもそれらがその曲集の中に収められた形で、明治初年に日本にまで渡来し、以後早くも一世紀以上、ピアノのある家庭で、そして少年少女たちによる発表会、いわゆる御浚い会で鳴り響きつづけて来たのだ。
これはまさに小さな一つの奇蹟であった。
 もう一つの奇蹟が起こっていた。それはこのおよそ忘れられた小巨匠クーラウのピアノ曲のジャンルではなく、彼自身は決して吹いたことのなかったというフルート曲が、後世のフルーティストたちによって選び取られ、彼らの愛好レパートリーとなったことであろう。そうだ。クーラウが後世に託した音楽によるメッセージは、決して反古にされ、焼き捨てられた訳ではなかったのだ。だが、そのメッセージを託された灯火は、強く光り輝き、ぼうぼうと燃え盛る照明灯や篝火とは、広大な音楽の華やかで煌びやかな領土の中では、けっして成り得ないものでもあったのだ。
 そうした新しい二つの世紀の交替の時期にもう一つの驚くべき奇蹟が起こる。それは、極東のひとりのフルーティストとクーラウの思いがけない、あるいはいささか偶然とも言うべき出会いであった。クーラウのフルート作品に興味を抱いた石原利矩氏の遥かな旅は、まず彼をクーラウが活躍したデンマークヘと導き、そこでクーラウ研究家ゴルム・ブスク氏との緊密な協力関係、協同関係の下にクーラウ音楽の再認識、再評価、そして再興・復活の狼煙があげられた。石原氏のその後のクーラウ芸術の復興活動の精力的な努力、推進は、まこと目覚しくも注目すべきものであった。
 インターナショナル・フリードリヒ・クーラウ協会の設立、クーラウの多岐に亘る創作活動、そして生涯の伝記的調査、とりわけ日本ばかりでなく、デンマーク本国でも、また欧米諸国でも、ほとんどまったく忘れ去られていたこの作曲家の舞台作品の復活上演への積極的な取り組み。こうした石原氏のクーラウ運動が大きな実を結んだのが、代表作《ルル》の演奏会形式による演奏(2000年3月26日〔日〕・東京オペラシティ・コンサートホール)であった。
 石原氏の、まさに獅子奮迅の<クーラウ運動>は、さらにここから毎年続けられて行く。『ハンブルクのクーラウ』(2001年1月)、『デンマークのクーラウ〜Part I〜』(2001年10月)、『デンマークのクーラウ〜Part II〜』(2002年7月)、『盗賊の城』演奏会形式(2002年11月)、クーラウ再発見『有名になり過ぎたソナチネ』(2003年5月)、クーラウ再発見『作曲家と演奏家のはざま』(2003年12月)、そして「クーラウのおくりもの〜『魔笛』よりも魔的〜オペラ『ルル』」(2004年10月)のクーラウ特別演奏会(演奏会形式)、そしてそのほか3回の<プレルル・コンサート>と、世界のどの国、どの地域でも、およそ考えられない<クーラウ讃歌>の数々が、まさに高らかに嶋り響き、奏でられ続けて来たのである。
 本日の《ルル》の舞台上演は、こうした石原利矩氏の<クーラウ運動>、<クーラウ讃歌>の集大成とも言うべきものであろう。
 筆者はここで、今、なぜ、クーラウの《ルル》の<初演より181年ぶり>の世界初再演なのか?という設問、否、その意義について語らねばならないだろう。与えられた紙面も尽きようというこの時点で、私はごく簡単にそれを試みることにしよう。
 筆者は2000年3月26日に東京オペラシティ・コンサートホールでおこなわれた記念すべき《ルル》の演奏会形式による本邦初演のプロゲラムに寄稿したエッセイに『いくつもの魔笛、そしてもう一つの魔笛』なるタイトルをつけたものであった。それは20世紀最後の10年間に、モーツァルトの永遠の傑作オペラ、ドイツ語のジングシュピールである《魔笛》(K620)に、従来のフリーメースン結社思想との密接な関係を強調する解釈に代わって、当時の御伽オペラの流行、隆盛の風潮の中にこの傑作オペラを位置づける試みを加えようという新しい傾向が、突如として浮上したという現象が出現し、ヴィーンのジングシュピール、とりわけシカネーダー一座の合作《賢者の石》や《親切な托鉢憎》やさらにはリーベスキントの《ルル、または魔法の笛》や、ペリネットとヴェンツェル・ミュラーの《ファゴット吹きのカスパル、または魔法のチター》などシカネーダーの対抗馬の活動に照明が当てられ始めたという事情を説明したことにあった。
 こうした現象のあとに、世紀が変わり、時代が移り、19世紀の20年代に、ヴィーンではなく、北方ドイツを超えて、デンマークで、クーラウのヴィーラント御伽オペラのオペラ《ルル、または魔法の笛》が、北欧の穏やかな薄明の中にその姿を現した奇蹟を示唆して、私は短いエッセイを閉じたのであった。
 今回も、私自身がそれを、その奇蹟を論じ尽くす余裕も、あるいはまた能力もない。だが、今日、日本の東京のコンサート・ホール、否、舞台上で繰りひろげられるクーラウのこの《ルル、または魔法の笛》の全編に響きわたる高らかなフルートの響きは、まさに音楽の魔的な、それもけっして陰鬱でも陰々滅々たる響きでなく、晴れやかにして、朗々たる、澄明な愛の響きを象徴し、悪の力は廃滅し、それに打ち膀つ愛の力の全能さが支配する世界が出現する有様を、声音とともに私たちに聴かせてくれるという奇蹟を実現してくれると、私はかたく信じているのだ。このいくつもの奇蹟に喝采!                      

インターナショナル・フリードリヒ・クーラウ協会