『クーラウ詣り』2012年6月 (石原利矩)

 

ニューハウン(その1)

 

 この旅行を『クーラウ詣り』と言うべきか、あるいは『ブスク詣り』というべきか。そもそも今回の旅行は「クーラウ・ピアノソナタ曲集」の発刊が発端だった。昨年の「クーラウ・コンクール」の帰りにデンマークに寄りクーラウの「ピアノソナタ」を発刊する相談をブスク氏としたことは「シャーロック・ホームズ現れず」でお話しをした 。このプロジェクトは初版以来再版されていないソナタだけを集めて3巻にまとめるというものだった。そして選ばれたのが19曲。帰国後すぐに楽譜のデジタル化が始まった。デジタル化というのは初版を元にパソコンソフトを用い現代の楽譜に書き換えることである。書き換えると言っても簡単なことではない。音を打ち込んだあとのレイアウトはそれ以上に時間がかかる。それぞれの曲はページの最後の段に収まるように配置しなければならない。初版が全て完璧なものとは限らない。音ミス、アーティキュレーションの不備は数多く散見される。作製する上でブスク氏と取り決めた基本原則がいくつかある。その一つに右手と左手はそれぞれ上段と下段に収めることにあった。初版では右手がト音記号の下加線が2本(1本または3本の時もある)を越すとそのまま下のヘ音記号の五線に入っていく。逆に左手がヘ音記号の上加線2本ぐらいで上のト音記号の五線に入っていく。ちょっとお解りにくいかもしれないが、楽譜のことを言葉で説明するのがいかに難しいかと言うことを解りいただけたと思う。分かり易く言うと(決して分かり易くはないが)右手は常に上段の五線に、左手は常に下段の五線を使うと言うことである。これをそれぞれ音部記号で処理する。これは結構大変な作り替えである。その他にも2度でぶつかる和音は2声に分ける当時の書法(ハタを上向きと下向きにすること)を改めること。細かいことがまだまだ沢山ある。
 19曲を合計すると400ページ以上となる。結局この曲集は4巻に分けることとなった。ある時点からブスク氏とのメールのやりとりが連日行われようになった。楽譜をpdfファイルで送りブスク氏が校正するのである。細目に亘ってダメ出しがでる。ブスク氏からはレイアウト上の問題が文章で帰ってくる。その文章からレイアウトを修正するのがまた一仕事である。そんなやりとりのある日、ブスク氏から「今度来る日はいつだ?」とメールが入った。「え?行くなんて言ってないのに!」と思いつつも「行かなければならなくなりそうだな」と思い始め、5月の初めにとうとう直談判をすることを決断した。13日出発、20日帰国のスケジュールである。連日ブスク氏宅に通うこととなりそうなので到着日以外はリュンビューの近くのホテルを予約した。
 例のクーラウ伝記の著者ヨーアン・エーリクセン氏にも会いたいのでオーフスに飛ぶことも考えたがそのため2日かかる。そんなこともありエーリクセン氏がコペンハーゲンに来てくれることになった。氏はコペンハーゲン市内よりも郊外で会いたいと言って、クーラウが散策をしたように一緒に自然の中を歩こうと提案してきた。帰国前日の18日に会うこととなった。
 その他に忘れてはならない友人がデンマークにいる。トーケ氏である。彼はコペンハーゲンのカストルップ空港に迎えに来てくれることになっている。


6/13(水) 初日

いつもお世話になっている直行便 SK 984/L

 外国旅行といえば何となくそわそわとして心が浮き立つものであるが、今回はとても冷静だ。初めて留学でウイーンに行った昔のことを思い出してみると現地に着いても一ヶ月ぐらいは雲の上を歩いているような感じだった。そんな感覚は今はない。今回はトランクをやめた。「荷物を軽く」をモットーとした。国内旅行で普段使っているコロコロ引っ張るカバンにした。なんと楽ちんなことだろう。人間の行動に許容される荷物の重さというものがあるということに気がついた。荷物が軽いということが冷静さをもたらした原因かなどと疑ってみた。「いや、単に感受性が鈍くなったのだよ」という声が聞こえなくもない。

 今世紀になって人類が初めて経験したことはインターネットの(発展)蔓延とタバコの受難である。タバコは近世になって発見され世界に広がった。一種の流行のように人々からもてはやされ、タバコ文化を築いてきた。嗅ぎタバコなどは貴族社会の社交の場面ではよく出てくる。昔の映画にはタバコが小道具に用いられている場面が多かった。今は全く陰を潜めている。ギャングがタバコを横様にくわえているシーンは酒類がその役割を担っている。今や、ギャングさえやめているのに市民においておやということだろうか?
 さて現代においてタバコを吸う人間は時代に遅れているのか、進んでいるのかどちらだろう。この嫌煙権の確立は世界的に広がり世の大勢を占めている。喫煙者はまるで世界を汚す悪者のように見なされ市民権を剥奪され続けている。しかし、よく考えると大変な欺瞞を政府は犯しているのではないか。タバコの外装には病気の警告が記載されている。健康に悪いことだと認識している。政府が認めて発売しているタバコは健康を害するものだが吸いたければ吸っても構わない。そうして吸う人には税金を払ってもらいます。政府がタバコが悪いものだと判断するならなぜ法律上はっきりと規制しないかということが腑に落ちない。こうして喫煙者を放し飼いにして税金だけを巻き上げる。政府はあくどいと思う。
 喫煙者にとって外国旅行はますますつらいものになっている。喫煙場所が非常に限られていて探すのに苦労する。そんな面倒なことなら吸わない方が精神衛生上、楽なので今回も禁煙で過ごす予定である。

 空港にトーケ氏が迎えてくれた。オペラの練習で遅れるかもしれないと言っていたが出口のところに待ていてくれた。「痩せたね!!!」まず最初の挨拶はそれだった。げっそりと・・・元気はあるが、ちょっといつもと違う。今まで何回かオケをやめるという話はあったが、今年いっぱいでオーケストラを退団するという今回の話は本当らしい。彼は昔はタバコを吸っていた。今はニコチンタブレットの愛用者として有名になっている。本人は誰にも気がつかれていないと思っているようだが、どっこい周りの人はみんな知っている。私がタバコを吸わないのを見て、「やめたのかい?」と聞いた。「実はやめたんだよ」と言ったらびっくりした。「いや、今朝からだけどね」と言ったら大笑いされた。そしてニコチンタブレットを分けてくれた。

日本の皆様、こんにちは

 

 13日のホテル予約は大変だった。事前にインターネットで探したのだが不思議に13日だけは市内のどのホテルも満員になっていた。たまたま空いているのもあったが、一泊が桁外れに高い。手頃な値段であるにはあるがそれがマルメ(スエーデン)だったり、コペンからかなり遠い町だったりする。仕方がないのでロスキレの近くのスランゲルプというところのホテルを押さえた。そしてトーケ氏にそれを伝えたところ「とても遠いから他のホテルにした方がよい」と言って市内のホテルの名前を挙げてきた。そこでそのホテルを調べてみると一泊9万なにがしかの部屋が一部屋だけ空いているという。一泊のためにそんなところは泊まることは身分不相応である。そこでインターネットの隅々を駆け巡り、やっと見つけたのがブロンディという地区にあるIdrattens Husというところ。ここはサッカースタジアムがある場所でスポーツジムの一部に宿泊施設が付属しているのである。チェックインした時に「あなたは今晩の宿泊者の最後の予約者だった」と言われた。ロケーションとしては自然の中ですばらしいところだが最初の一日のホテル探しで疲れが出た感じだ。
ホテル(HUS=家)の建物、左側のビル
ホテル(HUS=家)の入り口
夜中の三時頃(部屋から東の空を)
こんなものを撮影して気を紛らわすしかない。
 あとで聞いた話だがでホテル予約の難しかった原因はこの日に中国の首相がコペンハーゲンを訪問をするのでジャーナリストに押さえられたのだろうということ。もう一つはサッカーワールドカップ・ヨーロッパ予選のデンマーク対ポルトガル戦が17時より行われるとのこと。明日からはブスク氏とのバトルが待っている。


6/14(木) 第二日目

 眠いのか眠くないのかよくわからないうちに一夜が明けた。朝食は7時から9時までといわれている。食堂に行ってみた。どんなスポーツマンがいるのかと思っていたが食堂にいた人たちは特にスポーツと関係なさそうに見えた。私と同じように市内からあぶれた人種かもしれない。ヨーロッパのレストランは片田舎の頼りなげに見える場所でも出てくるものは新鮮な食材を用いているところが不思議である。ここの食堂も新鮮な食材がそろったバイキングだった。

客室より食堂への通路
Husの食堂

 
 今日は午前中には伺うとブスク氏には連絡しておいた。とにかく今日から3日予約しているリュンビューのスカンディック・エルミタージュホテルに行って荷物を預けることが先決だ。ブロンディの宿舎からタクシーでS電車の駅Glostrupまで行った。旧市庁舎のような駅でホームの地下の通路でクラリネットを演奏している大道芸の人がいた。切符を用意しないで乗車し検札に合うとひどい目に遭う。切符は必ず買ってから乗らなければならない。プラットホームに乗車券の発券機があったので操作してみたがうまくいかない。そばにいた人に聞いたがその人もよくわからない。クラリネットを吹いていた人がキオスクで切符を売っていることを教えてくれた。ありがたいことにその路線はそのまま乗っていけばリュンビューを通るルートだった。コペンハーゲン中央駅を過ぎてからはなじみのある駅の名前が出てきて少々安心した。

 リュンビュー駅に着いてタクシーでホテルに行った。降りてみると見たことのある町並みだ。それはリュンビュー・プリマヴェラ音楽祭の時の会場から目の前にあったビルディンだった。まさかこんな近くの場所だったとは想像もしなかった。このホテルを選んだのはブスク氏の推薦だった。ホテルの近くの停留所からブスク氏の家のそばまでパスで行くことができるから毎日通うのであれば便利だということだった。チェックインは14時からとなっていた。ホテルに着いたのが12時少し前だったが、宿泊の部屋のキーをもらうことができた。

ホテルの部屋の窓からの眺め
向かいのビルがリュンビュー音楽祭が行われたところ
遠くにリュンビュー教会が見える
リュンビュー教会のズームアップ


 リュンビューは私にとって昔からなじみ深い町なのだ。それはこの町の図書館でブスク氏の研究書に巡り会ったことにより、その後のクーラウ研究の道が開かれていったのだ。デンマークに来ればリュンビューは必ずといってよいほど訪れる町である。それはブスク氏と会うにはリュンビュー駅でS列車を降りなければならないからである。

 ノートブックを取り出し無線LANのインターネットの設定をしたがインターネットにつながらない。あきらめてゼロ発信で部屋からブスク氏に電話した。しかし、電話がかからない。乗車券発売機といいインターネットといい電話といい朝から機械製品に拒否されているようだ。出かけないとブスク氏が心配を始める。フロントから電話をかけさせてもらった。バスの乗り方を教えてもらう。近くにバス停があると聞いていたがバス停はリュンビュー教会の近くまで歩かなければならない。バス停に着いてみると一時間に2本のバスが走っていることがわかった。194番のバス運行ルート上にブスク氏のお宅がある。降りるべきバス停の名前をブスク氏から聞いたがよく聞こえなかった。やってきたバスには乗客はあまり乗っていない。だいたいの町並みはわかっていたのでそばへ行ったら騒げば降ろしてくれるくれるはずだ。ブスク氏の家が見えてきた。「ここです、ここです」と運転手に言ったら止めてくれた。

ブスク氏のお宅(まるでおとぎ話に出てくるような・・・)
玄関のベル(このノブを今まで何度たたいたことか)
ブスク氏(手ぐすねをして・・・)
奥様・リーセさん

 

 再会の挨拶を済ませブスク氏が手ぐすねをして待っていた楽譜の検討作業に入った。5月末から6月のはじめにかけて1巻から4巻までの最終的な(この時点での)全ての楽譜を4回に分けて送っている。私の到着までにブスク氏はピアノで弾き込み最終チェックを済ませてくれることになっていた。まず第1巻に含まれる4曲(Op.6a-1, Op.6a-2, Op.6a-3, Op.4) を今日中に仕上げようということになった。今回の出版で一番問題の多いOp.6aは二人にとって苦労の種だった。この楽譜の前で私は何度泣いたことか。涙は出なかったけど・・。
 編集の中身はいずれお知らせをするとして1時頃から始めた作業は気がついてみると9時過ぎになっていた。9時と言ってもまだ外は明るい。東京の今頃の感覚では夕方の6時ぐらいの明るさだ。夏至が近づいているのでそんなことになるのだ。そして奥様の手料理の夕飯をごちそうになり、腰を上げたのが11時過ぎとなっていた。この時間帯はバスは1時間に1本となる。帰りのバスの乗客は私一人の貸し切りだった。そしてホテルに戻りこの「紀行文」のアップを始めたのである。どうしても部屋からインターネットがつながらない。フロントに行って尋ねてみると今日はどの部屋でもインターネットが使えない状況となっている。明日中には直すから今日はロビーでやってくれと言う。初日の分をアップしたのが明け方の4時ごろ。空はすっかり明るくなっていた。


6/15(金) 第三日目
 今日もブスク氏宅訪問だ。昨日帰るときに「明日は午前中の10時から11時の間にいらっしゃい」と言われた。リュンビュー教会前出発10時30分発のバスがある。朝食を済ませバス停に向かった。バス停の前はリュンビュー図書館がある。この図書館も思い出のある大事な場所だ。

194のバス停
時刻表
リュンビュー図書館
リュンビュー図書館ズームアップ

 

 今日のバスは昼間だというのに私一人の貸し切りだった。ブスク氏は元気そうだった。今回のピアノソナタ出版は研究者としての仕事として大変重要に考えているようだ。昨日は何時に寝たのか聞かれたので4時頃だったと思うと答えたら目を丸くしていた。「自分は8時間は寝ることにしている」とのこと。そんなやりとりがあり昨日の続きを再開した。今日はできるところまでやってしまうことにした。

 第2巻はOp.5a, Op.6b, Op.8a, Op127である。仕事の手順としてはまずブスク氏がチェックし終えた楽譜の問題点を一つ一つ確認をして直すべきこと(これを日本に帰って私がパソコン上で直すのである)を赤ペンで記入してゆく。同じ音型で当然あるべきスラーやスタッカートが欠けている場合は何らかの形で補足するか、初版のままにして奏者に任せるかが以前から、二人の間の討議の重要案件なっていた。ブスク氏は点線のスラーは学術的な傾向の楽譜になるからこれは避けたいと言う意見だった。しかし私は奏者の立場から同じ音型でもスラーやスタッカートの付いているものと付いていないものとの間に何らかの演奏上の差異を見出そうとする自身の習性から、点線のスラーを書いた方が奏者に親切になるという意見だった。そこで1小節だけ点線のスラーを書き入れ後に続く音型には省略という方法をとることに合意した。これは今回の編集の大いなる指針となった。

 例えば上記のOp.6a-1の譜面で初版には左手の2小節目、3小節目にはにはスラーが書かれていない。しかしここはスラーで演奏されるべき箇所である。なぜならこの音型は別の個所ではちゃんとスラーが付いている。点線のスラーで奏者の注意を惹起すれば以後の小節は同様であると判断してもらいやすい。
 注解、注釈はほとんど読んでもらえないのが常識となっている。だからあまり注解、注釈で説明しても無駄な場合が多い。それよりも直感的に理解してもらえる方法を取るというのが我々二人の共同編輯の意図するところとなった。
 今日の楽譜は思いの外ミスが少ない。ブスクさんはミスのないページをめくるごとに私にお世辞を言う。楽譜の点検が終わるとその曲に対して行った過去のメール上のやりとりの文章で漏れがないか読み合わせをする。これは楽譜と一緒に1曲ごとにメールの文章を一つのファイルにまとめたものをブスク氏に送っておいたものである。質問箇所、提案箇所などを色づけしておいたので時間の節約ができた。第2巻の曲が終わったのが5時半ぐらいになっていた。ここでおやつをいただいて小休止を取る。もう少し先をやっておけば明日いっぱいには全てを終わることができると考え第3巻のOp.26-1, Op.26-2, Op.26-3の3曲を今日の内に済ますことを決め先を続けた。

ブスク氏の居間(その奥の部屋が書斎)
書斎の戦場
修正中の楽譜
修正済みの楽譜


 こうして終わったのが7時ごろ。昨日より早い。しかも7曲も仕上げたことになる。残りの8曲はOp.30の長大なソナタを除き比較的小曲である。連日夕飯をごちそうになることはちょっと申し訳ないが今回はリーセさんに甘えることにした。
 デンマークの若い世代は男性も家庭の仕事(食事の支度など)を手伝うのが一般的になっている。しかし、ブスク家では食事を作ることはリーセさんに殆ど任せられているようだ。ブスク氏は「自分は古い世代だから良いのだ、少々日本的な人間だ」と言っている。しかし、日本でも若い世代は家庭の仕事を手伝う人が多くなり、昔のように「男が厨房に入るのは恥」と考える人は少なくなっていると聞く。現在は何が日本的なのかわからなくなっている。

 ブスク氏はお酒が回ると決まって日本語の復習を始める。昔、日本にきたときに覚えた言葉を復習するのだ。私はクーラウのことに関してはいつもブスク氏に押さえられているが、このときだけは少々優越感を感じる。彼が思い出す範囲は大体決まっている。この数年は語彙の発展はしていない。しかし、彼の年代を覚える能力はすばらしい。家族の誕生日は勿論のこと、両親、祖父祖母、曾祖父曾祖母の誕生日も正確にインプットされている。作曲家の生誕年、没年などはおてのものだ。今回はブスク家の家系の記録書などを見せていただいた。1冊の本として編輯されている。貴重な記録だ。翻って日本人で曾祖父の世代の人たちの誕生日をいえる人は何人いるだろうか?

 この日は明日の約束をして10時頃においとまをしてホテルに戻った。帰りのバスはまたも貸し切りだった。ホテルに帰りフロントに聞いてみたら部屋でインターネットはまだ通じないという。日本のホテルでは考えられないが、こんな対処の仕方は日常茶飯事のようだ。仕方なしにフロントのロビーでメールのチェック、インターネットのアップロードなどを済ませて寝たのは、もう外が明るくなっていた時間である。明日に備えて少し睡眠を取らなければ・・・・


6/16(土) 第四日目

 この秋に発刊するクーラウ・ピアノソナタ曲集の19曲の内訳は以下のようになっている。
である。
第1巻 1〜4
第2巻 5〜8
第3巻 9〜12
第4巻 13〜19

クーラウ ピアノソナタ全集 (全4巻) 演奏者 演奏者
作品 ページ数 ページ割り 各巻のページ数 10月30日 11月26日
1 Op.6a-1 32 2-33      
2 Op.6a-2 19 34-52     加藤協子
3 Op.6a-3 21 53-73      
4 Op.4 30 74-103 102 今井顕  
5 Op.5a 23 2-24     今井顕
6 Op.6b 15 25-39      
Violino ad lib. 4 40-43      
7 Op.8a 32 44-75      
8 Op.127 26 76-101 100 伊吹このみ  
9 Op.26-1 13 2-14      
10 Op.26-2 28 15-42     柴田菊子
11 Op.26-3 25 43-67      
12 Op.30 40 68-107 106 鷲宮美幸  
13 Op.34 14 2-15      
14 Op.46-1 16 16-31      
15 Op.46-2 11 32-42   家城順子  
16 Op.46-3 24 43-66     塩入加奈子
17 Op.52-1 11 67-77      
18 Op.52-2 18 78-95      
19 Op.52-3 17 96-112 111    

                                     演奏者の敬称略

 

 初日は102ページ分、二日目は166ページ分が終わった。三日目の今日は残りの151ページが待っている。

 通い慣れてきたので今日は裏道を歩くことにした。リュンビューの町の正式な名前はKongens Lyngbyeという。「王様のヒースの町」と訳せるが、古くから上流階級の別荘地として人気の高い土地柄である。現代は町の中心は近代化されているが、裏道に入ると昔を偲ばせる建物がたくさんある。クーラウも散歩した道だろうと考えながらバス停にやってきた。

なぜか道路際で本を読んでいる女性がいた。 リュンビュー駅発194ルートのバスがやってきた。
乗っている人がいない! 今日も貸し切り?


 この路線はいつも空いているようだ。乗り込む時に乗車口にある検札機に回数券を入れてスタンプを押す。最初の日にリーセさんがこれを使いなさいと言って下さった使用中の回数券があった。ここからブスク氏宅まで1区間の距離である。この日、検札機に回数券を差し込んだがスタンプが押されない。何回も試したがうまくいかない。折れ曲がっていたのかもしれない。運転手が「いいから乗れ」という。結局無賃乗車となった。お客も少ないし、バス会社の経営は大丈夫だろうかと心配になった。

ブスク氏のお宅の前の通りの名前はBredevej(広い道) その18番地
今日は8曲を仕上げないと・・・ 赤いボールペンで決定事項を書き入れていく・・・

 
 今日の曲の中のOp.30はクーラウのピアノ・ソナタの中で一番長いものである。後は比較的短い曲が続く。
 連音符の数字をタマの方につけるか又はハタの方につけるか、高音域の音をどこからオクターブ記号を用いるか、音部記号をどの音から変えるかなどかなりセンスに任せられる箇所で二人の意見が食い違うときがある。どちらにも理由がある場合は決めかねる。大きな声では言えないが、こんな場合に消しゴムに裏表の印をつけてサイコロ代わりに決めた箇所も生まれた。
 楽典は時代によっても変化している。いわば多数決によって確立されたものといえるが曖昧な事柄も依然として残っている。「確認の臨時記号」などはかなり感覚的な部類に入る。楽典では臨時記号は1小節間は有効であるが次の小節の音には影響しないことになっている。しかし、演奏家は前の小節の和音感を持ち続ける習性がある。注意を喚起するためにその規則を無視して「確認の臨時記号」を付ける。これも今回のやっかいな検討事項の一つとなった。
 その他にも次の事柄は私も再認識したことであるがここに書いておくことも無駄なことではない。我々は学校教育で不完全小節で始めた場合、最終小節で辻褄を合わせなければならいと教わっている。しかし、これは二つのやり方がすでにベートーヴェン時代から混在していたことをブスク氏はいろいろな例を挙げて教えてくれた。目から鱗だった。
 
 パソコンソフトがいかに進歩したとはいえ最終的には作成する人間に任せている部分が大きい。楽譜の善し悪しは奏者に見やすく、的確に内容を伝えることができるかどうかにかかわっていることだと思う。

 12時ごろから仕事に取りかかった。途中小休止を一回取り、最後の曲まで根を詰めた。全部が終わって時計を見たら18時10分だった。

修正し終わった全ての楽譜 バトル後の講和握手


 この出版は日本のみならず外国にも広告する。従って注釈、注解は英語と日本語で並記する。ブスク氏はすでにそれを書き上げて、英語の翻訳も終わっていたがこの三日間の修正のためもう一度文章を見直さなければならなくなった。英語翻訳はブスク氏が自らできないわけではないが、刊行物にするためには専門家にゆだねるというのがブスク氏のポリシーである。いつものことながらブスク氏の知り合いのDees氏がデンマーク語から英語の仕事を引き受けてくれている。

 今日までの仕事で今回の旅の目的の重要課題は済んだ。ということはブスク氏と過ごすのは今日が最後の日となる。後は乾杯をして、夕食をごちそうになって、楽しい会話をして最後の時間を過ごすことになる。ブスク氏との別れは昔感じたような悲壮感は今はない。これは地球がますます狭くなったことで、会いたくなったらいつでも会えると思えるからだろう。

 クーラウ研究の将来のこと、IFKSのこと、死後のお墓のことなどが話題にのぼり、その間デンマークの作曲家のPoul Schierbeckの作品をCDできかせてもらった。この作曲家のオペラ"Fête Galante"が18日(月曜日)チボリ・コンサートホールで演奏されるという。Poul Schierbeckはニールセンの弟子だったそうで、この作曲家のこともオペラのことも私はデンマークに来て初めて知った。なおこの演奏会のオケはトーケ氏の所属するラジオ放送管弦楽団で彼がファーストフルートを吹くことになっている。ブスク氏、リーセさんとの話も尽きなかったが再会を約し深夜ホテルに戻った。相変わらず、インターネットは部屋でつながらない。期待はしていなかったけど・・・

 この紀行文のために睡眠時間がかなり少なくなっている。しかも一日遅れてのアップロード。これも時差というのだろうか?このように刻々と紀行文を書きそのたびにアップしていくのは初めてのことで、本当に話が伝わっているのか不安になるが乗りかかった船だから今回は帰国までがんばってみることにする。

 明日の午前中にあいちゃんが彼女のお母さん(たまたま日本からコペンハーゲンへ訪問中)と一緒にホテルに会いに来てくれることになっている。そこにトーケ氏がきて、次のホテルまで送ってくれるという約束だ。

 デンマーク滞在もあと二日である。明日から二日間はホテルが変わる。同じリュンビューの近くであるが市内ではなくもっと自然の中にあるホテルである。これはまた明日書く。

6/17(日) 第五日目

 今日は日曜日。朝食前にリュンビューの裏通りを散策した。

この日になって初めてホテルの全貌が目に入った。 こんなに立派なのにインターネットが使えないなんて・・・

 
 少し歩いているとなにやら人の声がガヤガヤと聞こえてきた。その声のする方に行ってみると広場に大勢の人が「ノミの市」を開く準備をしている。
「シャーロックホームズ現れず」を読んで下さった方はここで眉につばを付けるかもしれない。
どうせそこで何か楽譜を買ったことにして、また人々を欺くのでしょう?と・・・
いやノミの市は本当です。証拠をお見せします。

決められた場所に商品を並べる ガラスや陶器の専門
靴もあるよ  
アコーディオン、ドラムセット? おばあちゃんのお手伝い?かわいい坊やでした。

 

 裏道に入るとあちこちに昔の建物が残っている。リュンビューからJægersborgまでのローカル電車(単線)が走っている。Jægersborgの発音はイエヤスボーと読む。デンマーク語の発音がいかに難しいかがお解りいただける一例である。Jægerは狩人、borgは城という意味。「狩人の城」と訳せるが私は「家康の城」と覚えている。

ローカル電車のリュンビューの停車場 3両編成だったか2両編成だったかは記憶にない。
フェスティバルの時に話題に上ったクーラウ・ハウス ここの住人はIFKSの会員のMadsen氏
昔風の家だがちゃんとした人の住居だ。 藁葺きの屋根にご注目。
クーラウ時代は殆どが藁葺きだった。 そのため火事の回り方も早かった。
こんなに沢山の家を撮している間にすれ違った人はいない。 日曜日の朝だからだろうか。
しつこくもう一軒。 とどめ。


 撮影につかれたのでホテルに帰り、フロントの女の子にインターネットはまだだめかと聞いた。無線はだめだけどRAN接続ならOKという。コードを借りて接続したら接続ができた。多分最初からそうだったのだろうと疑ってしまう。
 
 朝食を済ませ約束の10時にフロントに行った。すでにあいちゃんとお母様がロビーで待っていた。このホテルは朝食時に泊まり客かどうかのチェックをしない。知らん顔してコーヒーをごちそうになった。

 あいちゃんは最初のクーラウ詣り(『妖精の丘』観劇ツアー)の時初めてデンマークに来た。まだ音大生時代だった。そのときの縁でデンマークとしっかりと結びついてしまった。昨年、デンマーク人と結婚されて幸せな生活を送っているようだ。トーケ氏は何年も前からあいちゃんのデンマーク語は完璧だと評価している。今回はちょうどお母様が日本から娘の幸せ度をチェックするため滞在されていた。こうして巡り会うのもみんなクーラウの「おかげ」なのだ。あいちゃんは幸せなときは「おかげ」と言い、反対の時は「せい」と言うのだそうだ。今回は「おかげ」と言ってくれたのでホッとした。そんなところにトーケ氏が到着した。

あいちゃんとお母様 あいちゃんと「おかげ」の演出者
つもる話で 日本の皆様、こんにちはとは言っていない。
   

 

 その後、ホテルをチェックアウトしてトーケ氏の車でFrederiksdal(フレデリクスデール)にあるSinatur Hotelに車で移動。ここは最後の二日間のホテルだ。リュンビューの町から車で20分ぐらいの所で湖の側の自然の中にある場所だ。なぜここを選んだかというとエーリクセン氏は18日(明日)に会うのはコペンハーゲンの市内は避けたいと言っていた。散策するならクーラウの居たリュンビューの近くがよいと考えて選んだのだ。想像していた通りこじんまりとした素敵なホテルだった。インターネットは全館アクセス・フリーで問題なく接続ができた。

ホテル入り口 Frederiksdalは地名だがdalは谷を意味する。


 今日は私に取っては丸一日何も無い自由の日だ。トーケ氏は夕方からコペンハーゲン市内に用事があるのでそれまで付き合ってくれた。ホテルの近くに「ソフィエンホルム」がある。そこに行ってみようということになった。「ソフィエンホルム」とはクーラウ時代の豪商コンスタンティン・ブルンの別荘でヴェイスヴェルド湖畔の建物である。第二回目のクーラウ詣りツアーの時、一度行ったことがある。ブルン家の主人コンスタンティンは芸術に無関心な人だったが、夫人のフレデリケは芸術に造詣が深くそのサロンは当時有名人の集まる所となっていた。クーラウもデンマークにやって来た初期の頃、ここの客人となって何度か訪ねている。ブルン家の娘、アデライーデ(通称イダ)はミミック(パントマイムの一種で有名人の所作を真似すること)でドイツでも有名になった人である。音楽的才能もあり歌も上手だった。その彼女にクーラウは歌曲を献呈している。作品9の6曲のイタリア語歌詞の歌曲で1813年作曲、14年に出版された。トーケ氏の執筆中の「クーラウ物語り」(題名未定)の中では「ソフィエンホルム」を舞台にクーラウと彼女のロマンスが書かれている。この秋出版予定だそうだ。

「ソフィエンホルム」の写真

ヴェイスヴェルド湖 湖畔に面した側・クーラウがその辺に居るような・・・
その裏側(こちらが玄関?) 展覧会・Zarah Voigt (娘・美術)/ Jean (父・舞台衣装)


 この建物は現在は公立のものとして保存され、展覧会や演奏会(月に一度)や各種の催しが行われるところとなっている。たまたま舞台衣装の有名なVoigt親子の作品が展示されていた(これは拝観した)。ちょうどその日に軽音楽の演奏会が行われることになっていた(これは敬遠した)。
 デンマークの天候は非常に変わりやすい。突然雨が降り、突然陽がさす。湖を見ながら外で昼食をとっていた時に突然の驟雨が襲ってきた。天幕の中だったので被害は少なかったが天幕の隙間から流れ落ちる雨水であたりは水浸し。お皿の中身は雨水の洗礼を受けた。
 旅行に出る前にこの日のこの時間帯にブスク氏、エーリクセン氏、トーケ氏、私の四者会談の場を計画したがエーリクセン氏が都合がつかず実現されなかった。驚くことに同じデンマークに住んでいて、同時期にクーラウの研究をしていたブスク氏、エーリクセン氏の二人はまだお互いに会ったことがない。昔からお互いに名前は知っていたという。いつかクーラウ研究をしている人の国際会議が出来るとよいと思う。そんなことをトーケ氏と話し合った。
 トーケ氏の車でホテルに送ってもらいそこで別れた。彼と会うのは今回はこれが最後となった。

 夕方、ホテルの近くを散策した。

昔の水車小屋 牧場
のどかですね。一日中草をたべているのでしょう。 この後、目の前にやってきたので馬語で会話をした。
森を抜け小一時間歩いたところで湖に出た。 さっき見たソフィエンホルムが現れた。
沖ではカヌーの練習 22時15分の空の明るさ


 こうして平和な時間を過ごした。


6/18(月) 第六日目

 デンマークに来て私はVIPになったような錯覚を覚えた。
 この朝ホテルのデスクに郵便物が私宛に届いていた。Svitzer (スヴィッツァー)社(デンマークの出版社)の最近の出版物である。クーラウのピアノソナチネ作品20-2のアスアー・ルン・クリスチャンセン(トーケ氏の父上)のフルートアンサンブルの編曲楽譜だった。これはアドリアン氏が校訂をした楽譜で、クーラウの自筆署名を入れたいので私の持っているゲネラルバスレッスンの入場券のクーラウの署名を使いたいと、以前言ってきたことがあり、スキャンして送ったことがあった。そのお礼として贈呈したいがデンマークにいる間に届くホテルの住所を教えてくれとアドリアン氏からいわれていたのだった。この曲は200年生誕記念のCDの第1曲目に収録されているもので、CDを買って下さった方はすでにお聴きになっているはずだ。素晴らしい見事な編曲だ。
 朝10時に部屋の扉を叩く人がいた。扉を開けるとエーリックセン氏がいた。ホテルにきてくれる約束をしていたのだ。久しぶりの(とは言っても昨年10月クーラウコンクールの前にヒナルップのお宅を訪問している)再会の挨拶をしていると、またドアをノックする人がいる。ドアを開くとそこにシュレンカート氏がいた。実はエーリクセン氏の面会を11時だったと勘違いしていたので(その時間の約束のメールは自宅のメールボックスに入っていたのでうろ覚えだった)シュレンカート氏の面会を10時にしてしまったのである。彼との約束はデンマークに来てからメール上で行ったのだ。シュレンカート氏はIFKS出版物のデンマークの販売委託者でカルペン(Carpen)社という出版会社の主人である。面会の時間が重なれば二人を紹介しようと考えていたのでちょうど良かった。

エーリクセン氏 シュレンカート氏

 
 二人の会話はデンマーク語。最近デンマーク人の会話が少しずつ分かるようになってきた感じがする。出版事情、クーラウ伝記、カルペン社のことなどを話していることは大体想像がついた。もしかしたら先入観がそうさせたのかも知れない。私はピアノソナタの販売委託で話す用事があった。小一時間ぐらい話し合いシュレンカート氏は帰った。VIPもなかなか忙しい。

 エーリクセン氏とその日の計画を話し合った。今日は午後から雨になる予報なので午前中にRoskildeロスキレへ行きそのあとフレデリクスボー城へ行くという二大イベントが決まった。ロスキレは古い町で由緒ある大聖堂があるところだ。そこには歴代の王家の棺が置かれている。クーラウはリュンビューから徒歩でロスキレまで行きその日にリュンビューに戻ったという記録がある。我々も真似してみたかったけどそんなことをしていると明日の飛行機に乗り遅れるかも知れない。エーリクセン氏の車で約1時間ぐらいのドライブでそこに着いた。

ロスキレ聖堂前の広場 ロスキレ大聖堂
側面 正門の両端の塔の上の方はまるで人の顔に見えた。


 聖堂の中はオルガン演奏が続いていて、良く聞いてみるとつっかえたり、弾き直していたりしていた。エーリクセン氏はオルガン奏者でもある。ニヤッとして今弾いている人はオルガニストの見習いであろうと言っていた。デンマークの王様はフレデリックとクリスチャンの二通りがあり交互にその名前が使われる。それぞれ第何世と付くことにより年代が分かる。デンマーク人にとっては分かり易いようであるが我々外国人は混乱する。ただ私に馴染みのあるのはクリスチャン4世とフレデリック6世である。前者は『妖精の丘』と関係があり後者はクーラウのデンマーク時代の王様である。

聖堂のオルガン クリスチャン王は高いマスト側に立つ(大きな壁画)
トーバルセン作・クリスチャン王の像 クリスチャン4世はクーラウと同様右目を失っている。

 

 デンマークの学校の教科書ではクリスチャン王は英雄のように説明されているが、現代の評価はだいぶ批判的なものが多いという。デンマーク人は王家の物語りをよく知っている。王室のスキャンダルなども隠すようなことはない。この辺は日本とは少し違うように思われる。
 王家の棺の撮影はビデオに入っていているのでここにご紹介できないのが残念だ。この紀行文も写真を使いたい所に適当なものが無い場合が多い。そんなときはビデオ撮りに忙しかったときだ。あちこちの部屋に収納されている棺の王様、お后の説明をエーリクセン氏が説明してくれたがなかなか覚えられなかった。一部屋に王様とお后の二つの棺だけが置かれている場所もあった。全ての棺の中には遺体が保存されているという。棺廻りにかなり時間がかかった。

 この後フレデリックスボー城に行かなければならない。そこまで行くのにやはり1時間以上はかかる。閉館時間が17時なのでエーリクセン氏は時間を気にしている。2時過ぎに出発した。カーナビが付いていない車なので運転中はかなり緊張している。彼は大学はコペンハーゲンだったので市内は良く頭に入っているが郊外となると自信がなさそうである。私が話しかけると生返事しか帰って来ないことがある。午前中あんなに晴れていたのに予想通りに途中ポツポツと雨が降ってきた。空は黒い雲に覆われている。フレデリックスボー城についたときにはしっかりした雨となっていた。この城はデンマーク中で一番美しい城と言われていて、国立歴史博物館となっていている。デンマークの博物館は月曜日は全て閉館であるがここはだけは例外に月曜日も開いている。私はすでに3回訪れている。馴染みのある絵は何度見ても楽しい。エーリクセン氏はクーラウの伝記を書いているだけあってその時代のことは非常に詳しい。彼の解説を聞きながら廻ったので以前とは異なる参観となった。

フレデリックスボー城に向かって ロスキレ大聖堂にあった構図と同じ絵(壁画の秀作)
その画家・マストランの肖像画 女優ルイーセ(ハイベア夫人)の絵は有名です。


 デンマークの勲章に関してエーリクセン氏からかなり詳しく教わった。勲章には2種類有り一つはデンマーク最高勲章(象勲章)、もう一つはダネブロー騎士称号である。前者は王侯か国家元首のみに授与されるもの、後者は学術、芸術、文化などで貢献したデンマーク市民(外国人の例外もある)に与えらるものとなっている。この任命権は時の王様、現在はマルガレーテ女王が行っている。例外として象勲章に原子物理学のニルス・ボア、船会社のマースク社長がその受章の栄誉を授かった。ルーマニア大統領チャウシェスクも授与された一人だが銃殺後削除されたという。

ブルーのリボンと象(象勲章) 赤い縁取りの白リボンと十字(ダネブロー騎士勲章)

 「勲章」から次のようなことを考察した。
 そもそも人間の価値は勲章などで評価出来るものではない。しかし、このように人間が如何に名誉を重んじ、勲章をほしがる生き物かが歴史上あらゆる社会においてみられるのだ。我々は人を評価する場合その肩書き、有名度などに頼ってしまう。それは自分で評価出来ないからだ。そんな場合勲章はその評価の手助けとなる。安易な評価基準だ。このように階級を作ることで人々の意欲を起こさせ国家の運営をスムーズにするという原理を施政者はうまく利用しているとも考えられる。軍隊の階級制などは正にこれに当てはまる。勲章を作りそれを授与することは人間の価値判断の非力を証明する行為に他ならない。な〜んてね。

 17時ぎりぎりまで粘りあちこちを廻ったが見残したところも沢山あった。退城するときは雨が上がっていた。エーリクセン氏は大変はにかみやだ。なかなか写真を撮らせてくれない。やっとポーズを作ってもらった。そこに通りかかったアメリカ人の青年にお願いして二人の写真も撮ることが出来た。

エーリクセン氏 今回の旅行中の最初にして最後の二人一緒の写真


 帰路迷いながらやっとホテルに着いた。この道のりも約1時間くらいかかった。

ホテルの庭に続く遊覧船の停泊所 撮影から逃げ出したエーリクセン氏


 空はすっかり晴れ渡っていた。鳥の声を聞きながらホテルのテラスで夕食をすませ、部屋に戻りいろいろな話をした。今度のピアノソナタの発刊は彼も大変興味を持ってくれている。ブスク氏との修正の内容、曲目、各巻の曲の配分など細かく質問された。初版以来絶版になっている曲をなんとか世界中に広げたいと言う気持ちは一緒である。そのためいろいろなサジェスチョンをしてくれた。その他デンマークの音楽学者同志の狭い考え方なども話題に上った。明日は彼は一人で北シェランを廻るという。私は日本に帰るためにコペンハーゲンの空港に昼過ぎには行っていなければならない。22時頃にエーリクセン氏は再会を約して自分のホテルに帰った。長くて短い一日だった。メールチェック、紀行文の続きの編集をしてベッドに入ったのは夜中を過ぎていた。

メールで以下の絵が届いていた。

ニューハウン(その2,全景)

6/19(火) 第七日目

 デンマーク最後の日となった。これからリュンビューまでバスで行き、そこで買い物を済ませ、コペンハーゲン中央駅まで行き、そこでスエーデン行きの列車に乗り換えカストルプ空港まで行くコースだ。帰国便はSK983/L 15時45分発、2時間前には空港にいなければならない。と言うことは1時45分だ。
 Frederiksdal(フレデリックスデール)からは1時間に2本のバスが通っている。バス代としてコインで50クローネ分、チェックアウトの時にフロントでくずしてもらって用意した。やって来たバスに乗り込んだがなんとこのバスも貸し切りだ。乗車券を買おうとしたが運転手は「コインでは受け取れない。いいから乗れ」と言う。どういう仕組みになっているのか全く分からない。結果的にこのバスも無賃乗車となった。
 リュンビューでは買いたいものがあった。紅茶とCDだ。紅茶は日本では手に入らないものを売っている紅茶専門店がある。そこで買う銘柄はSkovbær(森の実)という深紅の紅茶だ。昨年の旅行の時やっと探し当てたものだ。あとは本屋の店先にCDの廉価版が並んでいたのを目を付けていたものだ。そしてクーラウの火災に遭った家の近くのカフェーでコーヒーを飲み小休止をとりコペンハーゲン行きの電車に乗った。中央駅に着いてニューハウンに寄り道をしようかと考えた。クーラウの没した家のあるニューハウンは今度のピアノ曲集の表紙の絵として予定している。そこまで行って停泊中の船を撮影したかった。しかしカストルプ空港へ着くのが遅くなる。日本へ帰れなくなると困るので諦めた。思案の分岐点だった。

 これで飛行機に乗ればこの紀行文も終わりとなる。ホッとしたような気持ちになっていた。
 
 しかし、ここでハプニングが起きたのだ。もう少し紀行文を続けなけれなならなくなった。
 最近の搭乗手続きは電算化、簡略化が進んでいる。日本を出発するときに持って出るのはEチケットという旅行社からメールで送られて来た文面を自宅で印刷して空港の航空会社の窓口に提出するものだ。そこには旅行予約番号や搭乗する航空会社、機種などが書かれた少々頼りないA4一枚の紙である。カストルプ空港にも搭乗するための打ち込み機械があちこちに置かれている。チェックインを選び旅行予約番号を打ち込めばそれでOKとなる。これで今までの搭乗の混雑の解消は進んだのだ。私もこれに従い打ち込んだ。ところが目に入ったのは搭乗予定の成田行きが「Cancelled」となって何の説明もない。慌てて口のきける人間を捜した。案内嬢を見つけ聞いたところ「あっちの窓口に並べ」と言う。そちらを見ると日本人のツアーの乗客らしき人たちがずらっと並び窓口で手続きを取っている。その後尾についてやっと自分の番になったのでEチケットを見せると 「成田からの飛行機が飛ばなかったので折り返し便の手配が出来ない。他の航空会社の空席を探し帰国できるようにする」と言ってくれた。そしてしばらくキーボードを叩いていたがやっと解決したらしい。それによるとこれからSKでストックホルムに飛びそこで一泊して翌日早朝にルフトハンザ機でフランクフルトまで飛びそこで同じくルフトハンザ機で成田まで飛ぶというものだった。予定が1日遅れることになるのだ。日本ではその日レッスンを入れている。今月は今回の旅行のため月の後半はレッスンが詰まってしまったのでそんなスケジュールとなっていた。成田からレッスン場に直行をしなければならない。帰れないよりまだラッキーと考えなければならない。もし中央駅からニューハウンに行っていたら手続きが遅れもっと悪条件の帰国となったかも知れない。日本を台風が襲ったことも運命だし、そのため飛行機が飛ばなかったのも運命だし、こうして航空会社の言いなりになるのもまた運命だ。預ける荷物は成田受け取りとした。あとでこれが失敗したことに気が付いた。それは携帯、パソコン、カメラ、ビデオの充電器をその荷物に入れてしまったことである。

成田行きキャンセルの告知(下から2行目) 混雑のカストルプ空港


 代替え機のストックホルム行きは17時10分。空港で時間をつぶさなければならなかった。ふと見ると見覚えのある顔が目に入った。それはリュンビュー・プリマヴェーラ・音楽祭の時に御世話になった旅行社の若林さんだった。彼はこの日日本へ帰るツアーの担当をしていてこの事件に巻き込まれた一人だ。忙しそうにツアーの人たちの応対をしていた。向こうも覚えていてくれて閑が出来たら後で会いましょうと言って別れた。空港内のレストランで時間をつぶしているとそこに若林さんが現れた。いろいろ旅行業の話をきかせてもらった。

若林さん ストックホルム行きの代替機


 こんな事故は滅多にないらしい。若林さんも一苦労だったらしい。コペンハーゲンの空港は世界一静かで「サイレント・エヤーポート」と呼ばれているという。そういえばアナウンスが滅多にない。時たま聞こえるのは「トランクから離れて持ち主不明のように見えるものは係員が処理をしてしまう」という注意のアナウンスだ。
 コペンハーゲンのスリも随分増えているということでその手口もいろいろ教えてもらった。特に中央駅はスリの巣だそうである。しかも、日本人がその犠牲に遭うことが多いらしく「スリ」という言葉は国際語となっているとのこと。現地のスリの専門家も自分たちのことを「スリ」と言っているそうである。
 ストックホルムの空港に着いたらどうしたら良いかなどの説明も親切にしてくれた。これらに関わる費用は一切航空会社持ちとなるから安心して良い。ストックホルムのトランスポート・レセプションでホテル、夕食、朝食、ホテルまでの自動車の手配のバウチャーをもらう手続きをするようにと言われた。時間が来たので代替機に乗った。20名ぐらいの日本人ツアーの人たちも同じ飛行機だった。

 ストックホルムのホテルは世界にチェーン店を持つBest Westernの一つ。このホテルは航空会社と提携していて、このような事故の場合、対応することに慣れているホテルと見受けられた。ストックホルムの町は空港から1時間近くかかるがここは15分ぐらいの場所にある。ディナーがいかに豪華!であったかの写真をご紹介する。

空港からミニバスで15分ぐらいの所 ホテルの玄関
その裏手にプレハブ作りの客室、その1室が与えられた。 料理は3種類のみ、今回の旅行中一番豪華?な料理だった。

6/20(水) 第八日目

 早朝4時にモーニングコールで起こされ、ストックホルム6時25分発のルフトハンザ機に約2時間乗って、フランクフルト空港で5時間近く待たされ、ルフトハンザ機13時10分発に乗り21日朝8時頃に成田に到着したことは紀行文としてはあまり面白くないので省略する。

6/21(木) 第九日目
 
 帰国が予定より1日遅れたが、こうして無事に帰国できたことは 運命の女神に感謝しよう。
 いろいろな人とのめぐり会い、楽しい思い出が一杯詰まった今回の旅行がクーラウのピアノソナタ発刊を前進させるものとしてその任務を果たすことが出来たものであれば幸いだ。
 世界に羽ばたく「クーラウ・ピアノソナタ曲集」を祈願して・・・

 最後にデンマーク語の格言をご紹介してこの紀行文を終わりとする。

Øst vest, hjemme bedst.

オスト ヴェスト、イエーム ベスト

東西あれど、我が家が一番

(終わり)


 拙文にお付き合いくださった方には御礼申し上げます。
 ご愛読有り難うございました。
 2012年6月 22日