「Kuhlau in Denmark」その1

Kuhlau in DenmarkPart I

 クーラウはハンブルクから1810年暮れデンマークのコペンハーゲンに移住しました。クーラウはこれを演奏旅行と定義付けています。しかし一般的に亡命と言われています。カスパール・マイヤーという偽名を使っているからです(甥クーラウの証言)。しかしクーラウの当時の手紙によれば初めからデンマークを定住地にしようとしたわけではないようです。
 それなら何故デンマークに行ったかということになりますが、ハンブルクとデンマークは当時、国境が接近していました。ハンブルクのすぐ北はデンマーク領でした。外国に行く一番近道はデンマークだったのです。もう一つの遠因は伯父がデンマークのオールボーで教会のオルガニストとして住んでいました。デンマークに親近感を抱いていたことは考えられます。両親と一緒に住んでいたハンブルクから単身で出発したのです。ワイセWeyseもずっと以前(1789年)アルトナ(ハンブルクのとなり町)からコペンハーゲンに移住した作曲家です。
 この地を選んだことはクーラウにとって幸運だったのか不運だったのかを判断することは難しいことです。もしも、例えばライプツィッヒとかウイーンとかに行っていたら恐らく違う作品を作曲したことでしょう。しかし、それが後世に残るような成功した作品になったかどうかは誰にも分からないことです。
 いずれにせよクーラウはデンマークを選びました。そしてその後の彼の半生をデンマークの作曲家としてそこで過ごすことになるのです。
 大方のクーラウの記述には彼はデンマークに渡りすぐさま『盗賊の城』を作曲し、それが大当たりをして有名になったとありますが、そんなに簡単なことではありません。クーラウにとってはデンマークに行ってすぐこれからの生きて行く方向を模索しなければならない時期でした。政情不穏なハンブルクには両親を残してきました。家族思いのクーラウにとってはそれは心配なことだったでしょう。一旗揚げて家族を呼び寄せることはクーラウの願いだったように思われます。両親と妹のマグダレーナがデンマークに移住した時期は不明ですが比較的早く(1814年頃)同居は実現しています。

 クーラウは作曲家とピアニストの両方の分野で活躍しました。作曲家と演奏家と職務をはっきり分類されるようになったのは近代になってからです。昔はその辺の線引きがが曖昧で作曲家すなわち演奏家と言う時代でした。1810年~1814年の間はクーラウは両面に力を注ぎましたが1815年~1818年はピアニストとに比重が多くかかっています。何故ならこの時期に生み出された作品が非常に少ないからです。(グラフ参照)

作曲家と演奏家の比重
■演奏回数 ■出版楽譜のページ数 
 このグラフの右側の数値はその年に出版された楽譜のページ数の合計です。出版と作曲年はずれることがありますからおおよそのグラフとして見てください。演奏活動と作曲活動が反比例していることがお分かりになると思います。

 クーラウはデンマークに来てすぐ演奏会を開くことになりました。1810年の暮れコペンハーゲンに到着し翌年1811年1月23日コペンハーゲンの王立劇場における音楽会です。この時のプログラムには「ハンブルクのピアノ演奏家クーラウ氏」と紹介されています。
 曲目は次のようになっています。
第一部
1.モーツアルトの序曲
2.リギーニ作曲 アリア ベルトハイム夫人によって歌われる
3.ピアノ・コンチェルト 作曲・演奏 クーラウ氏
第二部
1.モーツアルトの序曲
2.2本のオーボエのコンチェルタンテ 作曲 宮廷音楽家バールト氏
                   演奏 同氏とケッペン氏
3.音画「海の嵐」
 1、静かな海
 2、嵐の接近
 3、嵐の猛威
 4、嵐が遠のき空が明るくなる
 5、喜びの漁師たちの歌とこの演奏会を締めくくるその歌の変奏曲

 この演奏会の模様をブリッカは次のようにのべています。
「1811年1月23日、コペンハーゲンの王立劇場で音楽会が行われた。演奏しようとしているこの外国の芸術家について、人々は殆ど何も知らなかった。確かに、彼は亡命してコペンハーゲンにやって来たと言うことは知られていた。しかし、彼がヨーロッパですでに有名になっていると言うことで彼の到来が賞賛されるわけではなかった。幕が上がり、黒い衣装を身につけた骨ばった、幾分ぎすぎすした若者が現れた。彼はひどい縮れ毛で、片方の目がないことによって損なわれた細おもての赤い頬をした顔をしていた。しかし、その他の点では非常に誠実な印象を与えたが、しぐさにおけるぎこちない様子がそれに対照をなしていた。外見上の動作に調和が欠けていた。そして、彼はピアノの前に座った。楽長のクンツェン*が指揮棒を上げた。そして、ピアノコンチェルトC-Durが始まった。驚くほどの完璧さで鍵盤を駆けめぐる指から引き出される音から、今まで彼をとりまいていた頼りなさが一掃され、彼が巨匠であることを証明した。そして最後のアレグロを弾き終わりピアノから立ち上がったときフリードリッヒ・クーラウの最初の登場は、デンマークの聴衆によって絶賛を持って迎えられた。」

 クーラウの当時の姿が目に浮かぶようですね。

 この時のピアノコンチェルトというのはハンブルク時代に作曲されたOp.7で1812に出版された時ヴァイセに献呈されました。
「海の嵐」は音画と記述されていますが、これはピアノ曲です。標題音楽ですがクーラウの描写がどのようなものであったか、このような類の作品がクーラウには他にないので失われてしまったのがとても残念です。もしかしたらクーラウの得意な即興演奏であった可能性もあります。

 さて、クーラウがコペンハーゲンにおけるデビュー演奏会の後、2月16日にも音楽アカデミーで音楽会をしています。そこでは、再びピアノコンチェルト、ベートーヴェンのピアノ五重奏曲Op.16のピアノパート、自身のピアノ変奏曲(詳細は不明)を演奏しています。

 この頃、劇場のピアノ教師の勤め口の話が持ち上がりましたがクンツェンの推薦があったにも関わらず不首尾に終わりました。もしかしたらこの交渉でクーラウの自己主張が幾分強かったのが理由かも知れません。劇場監督ハウク宛ての手紙にはこう書かれています。「---まず、私は300リグスダーラーという少ない額の年俸に甘んじることにいたします。しかし、当地で生活するにはそれだけでは不可能です。それゆえ私は一日の内の多くの時間をプライベートレッスンに当てなければなりません。ですから劇場の生徒さんがたのレッスンは毎日二時間以上にならないようにしてください。もしも、毎日3時間のレッスンをお命じになり年俸600リグスダーラーに増額して下さるなら私は副業をやめ、永らく望んでいたように煩うことなく一日の大部分を自分の芸術生活に没頭することができ、幸せを得ることができます。」
 結局、この仕事は他の人にまわされました。
 ここで言う劇場の生徒とは俳優や歌手のことで、彼らの音楽面の教育をする教師の職種があったのです。

 クーラウは比較的早くデンマークの上流階級、文化人の中にとけ込んだようです。この年の夏(1811年)には客人としてブルン家のソフィエンホルムに招かれています。そこではブルン家の令嬢のイダの歌に伴奏をしたりしています。また、若きハイベーア(後の『妖精の丘』の作者)とも会っています。

 3回目のコンサートはその年の11月30日に王立劇場で行われました。その日のプログラムは再びC-Durのピアノコンチェルト、クラブの歌「武器を取れ、敵が来るのを見よ」のピアノのための変奏曲、新作f-mollのピアノコンチェルトの第1楽章(翌年全楽章が演奏されています)。この演奏会の主要の呼び物、ドイツ人フェルトハイム夫人によって歌われた「オシアンのコマラの名場面」でした。この曲はf-mollのピアノコンチェルトと同じく失われてしまいました。

 その他、12月14日には宮廷の女王陛下の控えの間で演奏をし、100リグスダーラー賜りました。

 クーラウの性格について、いろいろな人の様々な記述があります。上流階級にとけ込んだとは言え、堅苦しいことが嫌いで上流階級よりも市井の人々との間にいる方が居心地がよかったというものが多いのです。女性とは口もきけなかったような記述もありますが、宮廷で女王さまが自らお茶を差し出してくれたのに「シュナップスの方が---」と答えたというものもあります。もしかして極度の緊張のあまり口走ってしまったのかも知れません。傲慢で礼儀をわきまえない人物とは私には思えないのですが---。

 クーラウ自身の手紙で彼から見たデンマークの音楽事情を見てみましよう。これは1811年12月にブライトコップフ&ヘルテル社に宛てたものです。
「コペンハーゲンの音楽事情をお伝えするお約束をしましたが、それを果たすことはなかなか簡単なことではありません。なぜなら私は伝えるべきものを、すべてよく知っている訳ではないからです。また、ここの歌い手の音楽が批評でひどくたたかれていること、オーケストラや王立楽団が中庸なものであること(二、三の優れた奏者は別として)、そもそも音楽に良い趣味が欠けているなどと口外したりしたら、当地で敵を作ってしまうだろうからです。(ほんの二、三年前は、ここの宮廷楽団は非常に素晴らしかったということです。多くの優秀な奏者--特に弦楽器奏者--がやめてしまったのです。その他の人たちは、年をとって使いものにならなくなってしまったり、あるいはレッスンばかりして、自分の技術を失ったりしています。)
 しかし、私は当地にこんなにも永く滞在したことを後悔はしないでしょう。何故ならここで、音楽的観点から非常に優れた人たちと知り合いになったからです。例えば、その優れたピアノ作品で知られるワイセです。彼は私が今まで聴いた中で最も優れたピアノ奏者です。彼の即興演奏を聴いた人なら、誰でも私が大げさに言っているとは考えないでしょう。彼はつい最近、長大なオペラ(エーレンスレイヤー教授のテキストの「ファルーク」と呼ばれています)を書き終えたばかりです。このオペラは、来冬、王様の誕生日のために上演されると言うことです。それは天才的筆致にあふれ、当節のオペラ作曲家には真似のできないものです。テキストも素晴らしい出来映えです。彼は翻訳ができ次第、ドイツで上演することを考えています。
 クンツェン(音楽教授で宮廷楽長、ダンネブロー騎士)は非常に尊敬すべき人です。あなたは彼の「天地創造のハレルヤ」やその他の素晴らしい作品をご存じでしょう。彼のドイツ語に翻訳されていない最上で大きな作品は残念ながらこちらでしか知られず評価されていません。
 グロンラン(法律顧問官)はすぐれた理論家です。目の前におかれた音楽作品の隠された間違いと同様、隠された美を見つけだすことを知っている鑑識眼を備えているため私には際だって見えます。
 シャル(コンサートマスター、ダンネブロー騎士)はデンマーク人に非常に好まれたバレー曲を作曲しました。
 リース氏は去年の春はこちらに居ましたが公開の演奏会は行わず、宮廷で演奏しただけです。(彼は現在ペテルスブルクに居ます)。彼はしばしば私に即興演奏をしてくれましたが、しかし私に気に入るものではありませんでした。ワイセに較ぶべきもありません。---去年の冬は私以外に外国人の音楽家は来ませんでした。私はここで3回の公開演奏会と宮廷で2回演奏しました。
---中略---
 劇場の歌手のための慈善演奏会や、クラブの演奏会や愛好家演奏会が毎週沢山行われています。それらはいつも満席ですが、残念ながら音楽のためにだけにやってくる注意深い聴衆ではありません。そのような人はここには非常に少ないのです。私はこれらの音楽会にクンツェン、シュルツ、老ツィンク、時には独創的なワイセの交響曲---彼の美しい効果的な交響曲のいくつかはまだ出版されていません。---」

 このようなデンマークの音楽情報をAMZ(ブライトコップフ社の週間音楽情報誌)にいくつか書き送っていますが、この仕事はクーラウの性格から不適任なものでした。いくつか情報を書いた後、他の人を推薦してやめています。

 1812年、クーラウは継続的にコペンハーゲンに留まることを決意しました。

 一連の音楽会の中には、1813年1月22日に音楽アカデミーで行われたものも含まれています。プログラムはベートーヴェンのコンチェルト(何番かは不明)のソリスト、自身のピアノのための「新しいポップリ」、ケルビーニのオペラ「二日間」のアリアによるピアノのための変奏曲(Op.12)等があります。

 1813年の初め、クーラウは宮廷楽師になる許可を求めています。ある伯爵夫人の取りなしによって、クーラウは空席待ちの無給の楽師に任命されました。同時に彼はデンマーク市民権を請願するように促され、3月12日に叶えられました。しかし宮廷楽師と言っても肩書きだけのものですぐに経済的な助けにならず、いわば約束手形のようなものでした。(有給になったのは5年後の1818年4月25日)。クーラウは相変わらず、音楽会、作品出版、歌やピアノのレッスン(1時間3リグスダーラー)等の収入で生活をしなければなりませんでした。

 この頃の作品はピアノ曲、歌曲、フルート曲等でありますが、そのほとんどはブライトコップフ&ヘルテル(以下B&H)社から出版され、クーラウのフルート曲の本格的な最初の二重奏、作品Op.10aもこのような状況の中で作曲されています。
 1812年11月21日、B&H社宛の手紙に「フルートの二重奏曲を出版する意向があるか」と訊ねています。
 そしておそらく出版の承諾を受けとったのでしょう(クーラウがもらった手紙は後年の火災のため殆ど残っていません)。1813年3月4日の手紙には「この曲を送った」と書いています。

 クーラウの生活は常に苦しかったようです。度重なる請願にも関わらず、許可されたのは200リグスダーラーの劇場からの前借りだけでした。

 1813年の春、シラーの詩による「喜びに寄す」の大カンタータを作曲しています。この詩はベートーヴェンの第9交響曲に用いられたものと同じものです。初演は翌年1814年4月11日に行われ、再演が1816年5月23日でこの曲の演奏回数は二回の記録が残っているだけです。いずれもあまり好評を得られなかったようです。この楽譜は出版されずじまいで、自筆譜(パート譜)がデンマーク王立図書館に保有されていますが、ブスク氏の試みにもかかわらず、かなりの部分の欠落によって完全な形の復元が不可能になっています。

 フルート作品のOp.13の3曲のフルート三重奏曲は、丁度この時期に作曲されました。この作品に関して1814年3月8日のB&H社宛の手紙に「Op.13が出来上がり、ヘルテル氏に提供する」と書かれ、1814年7月20日の同社宛の手紙には「Op.13を送った」とあります。この曲は上記のカンタータ「喜びに寄す」が初演された演奏会(1814年4月11日)の時に同じく初演されています。

 デンマークに来てから初めて作曲した劇場作品のオペラ『盗賊の城』は、クーラウの名前を一躍有名にさせました。このテキストはエーレンスレイヤーによるもので、中世の騎士を題材にしたものです。それまでのデンマークの音楽界に新風を吹き込んだものとしてセンセーションを巻き起こしました。初演は1814年5月26日にデンマーク王立劇場で行われ、それ以後クーラウの存命中は毎年劇場の出し物となりました。1879年の最後の公演まで計91回上演されています。

 このオペラのリブレットをエーレンスレーヤーがクーラウのために書き下ろしたことはWhat's Newsの「『盗賊の城』リブレット翻訳開始」に掲載しました。ご覧下さい。
http://www.kuhlau.gr.jp./ifks-Info18.html
クーラウはこのオペラをレーウェンスキヨル男爵の城に4ヶ月滞在して書き上げました。『盗賊の城』はクーラウのオペラの内で(『ルル』のダルムシュタット、東京公演を除く)外国上演された唯一のものです。

 この頃(1814年の半ばあるいは少し早い時期)に、両親と妹マグダレーナがクーラウを頼ってハンブルクからコペンハーゲンにやって来ました。クーラウにとっては、ますます経済的に苦しくなっていったのです。

 クーラウは1814年12月21日、ベルリンのホルン奏者シェンケの演奏会を、また1814年1月29日、音楽アカデミーの演奏会を行っています。

 クーラウが1811年~1814年に作曲した曲は次のようなものがあります。

Op.5a---Sonate fuer Klavier (1811~12)

Op.6a---3 Sonaten fuer Klavier (1811)
------
Op.6a-1 Sonate a-moll
------ Op.6a-2 Sonate D-Dur
------
Op.6a-3 Sonate F-Dur

Op.6b---Sonatine in D Dur fuer Klavier, Violine ad lib.(1811-12)

Op.8a---Sonate fuer Klavier a-moll (1812)

クラブの歌「武器を取れ、敵が来るのを見よ」のピアノのための変奏曲(紛失)

ピアノコンチェルト第2番 f moll(紛失)

Op.9---Sei Canzoni mit Klavier (1813)

Op.10a---3 Duos fuer 2 Floeten (1813)
------
Op.10a-1 e-moll
------
Op.10a-2 D-Dur
------ Op.10a-3 G-Dur

Op.11a---10 Deutsche Lieder mit Klavier (1813)

Op.12---7 Variationenn fuer Klavier (um 1814)

Op.13---3 Trios fuer 3 Floeten (1814)
------
Op.13-1 D-Dur
------
Op.13-2 g-moll
------
Op.13-3 F-Dur

Op.14---7 Variationenn fuer Klavier (ca. 1813)

Op.15---8 Variationenn fuer Klavier (ca. 1815)

1812年11月30日「オシアンのコマラの名場面」演奏(紛失)

1813年の春、シラーの詩による「喜びに寄せる」の大カンタータ作曲(大部分紛失)

Nr.129---"Roeverborgen" (1813)『盗賊の城』

ただし、Op.7---Klavier Konzert C-Dur はハンブルク時代の作品です。

赤字は2001年10月21日の第二回IFKS定期演奏会のプログラムに登場した曲です)

緑字は2002年7月5日の第三回IFKS定期演奏会のプログラムで演奏される曲曲です)

続く(第三回IFKS定期に演奏される作品の考証)

 

「Kuhlau in Denmark」その2

Kuhlau in Denmark Part II

 この時代の作品
 『盗賊の城』(1814年5月26日初演)以後の曲で例のピアノのソナチネOp.20(1819年頃)までの間に次の作品番号があります。約4年間に作曲された数は非常に少ないのです。作品番号のないものを含めると以下の4作品だけではないとは言え、クーラウの生涯の内で寡作の時代と言えます。ピアニストとしての演奏会が多かったことや、生活費を得るための和声学のレッスンや声楽の授業(王立劇場の俳優養成)などが原因していると考えられます。

Op.16, 8 Variationen fuer Klavier ueber "Kong Christian stod ved hoejen Mast" (作曲年ca.1818, 出版1819 )

Op.17, Sonatine in F Dur fuer Klavier zu 4 Haenden (作曲年代不詳、出版1818

Op.18, 9 Variationen fuer Klavier ueber "Willkommen, Purpurschale, du!" (作曲年代不詳、出版1819

Op.19, 10 Deutsche Gesaenge mit Klavier (作曲年ca.1818, 出版1819

 作品16について
 ここで作品番号16についてお話しいたします。それについてOp.127のピアノソナタのことを述べなければなりません。Op.127と言えばクーラウの作品番号の最後のものです。クーラウの死後デンマークの出版社Loseから1833年に出版されました。実はこの作品はそもそもOp.16として作曲されたものなのです。クーラウは作品を出版社に売ることで生活費を得ていました。販路拡張もしています。ライプツイッヒのペータース社もその一つです。後にペータース社と関係が生まれる事になりますが、これは最初の手紙(1815年8月19日付け)です。

「有名な出版業を営む御社において私の作品の一部を出版していただきたいという私の希望を申し上げることをお許し下さい。まずここに作品16のソナタを同封します。もしもあなたがこの作品の価値を正当にご評価下さるなら、出版の条件として5 Louisdorを提案したいと思います。間もなく私は演奏旅行に出かけてしまいますので、できれば至急のご返事をいただければ有り難いと思います。もしも、このソナタの出版の同意を得られなければ、ヘルテル社に提供しようと考えています。」

これに関するペータース社宛の手紙(1815年11月28日付け)があります。

「私のソナタの出版の同意を得られなかったことはまことに残念なことです。ヘルテル氏も同様に受け入れてくれませんでした。そこでお手元のソナタの楽譜を至急送り返して下さる事をお願いいたします。」

ということでこのピアノソナタはペータース社からもブライトコップフ社からも断られました。出版の日の目を見ないままになってしまったのです。実際に出版されたOp.16は全く別のものです。

ここでこの二つの作品を聞いて頂きましょう。

Op.16, 8 Variationen fuer Klavier ueber "Kong Christian stod ved hoejen Mast"

Op.127, Sonate in Es Dur fuer Klavier

 作品ジャンル別表
 クーラウがデンマークに来てからOp.5aOp.19までの間に生み出された作品をジャンル別に分けるてみましょう。

ピアノ曲

作品番号
備考
曲数

ソナタ

Op.5a, Op.6a-1, Op.6a-2 , Op.6a-3, Op.8, Op.16, Op.18, Op.127

ピアノソナタ

8

ソナチネ

Op.6b (vn, adlib), Op.17(連弾)

4手用ピアノソナチネ

1

コンチェルト

第2番 f moll(紛失)

1

変奏曲

クラブの歌「武器を取れ、敵が来るのを見よ」(紛失), Op.12, Op.14, Op.15

ピアノの変奏曲

4

ワルツ

DF.Nr.211

ワルツ集

10

声楽曲

カノン

コーミッシェカノン

三声のカノン

12

オペラ

Nr.129「盗賊の城」,
Op.27魔法の竪琴」

魔法の竪琴」はOp.27ですが作曲年代はこの時期に含まれます。

2

歌曲

Op.96曲),Op.11a10曲), Op.1910曲), Aladin(2 曲) sang fra det fjerne & Oldigens advarsel(2曲)

30

オケ付きアリア

「オシアンのコマラの名場面」(紛失), Op.47 「タルタルスのユーリデイーチェ」

「タルタルスのユーリデイーチェ」は1816年作曲

2

カンタータ

「喜びに寄せる」(大部分紛失)

1

カンタティーノ

(2人のソプラノ、合唱、フルート・オブリガート)

1

フルート曲

Op.10a-1, Op.10a-2, Op.10a-3, Op.13-1, Op.13-2 , Op.13-3

Op.10,フルート二重奏

Op.13,フルート三重奏

6

 赤字は第2回定期演奏会で演奏された曲
 緑字は第3回定期演奏会で演奏される曲
 斜体は盗賊の城以降から
Op.20までの間に作曲された作品

 クーラウの作風
 クーラウの全作品を一瞥してみると手の混んだものとそれほどでもないものが混在しています。同時に、作品の質も様々です。例えば作品17のピアノ連弾の作品と作品18の変奏曲を比べてみると同じ作曲家の作品とは思えないほどの質の差があります。これはその後のクーラウの作品の生み出し方を端的に表しています。おそらく、自らの意志とは関係なく出版社の要請に合わせて作曲したからでしょう。

 その例としてここで二つの曲を比較してお聴きください。如何に両者の音楽の質の違いがあるかおわかりになるはずです。

Op.17, Sonatine in F Dur fuer Klavier zu 4 Haenden

Op.18, 9 Variationen fuer Klavier

 これは後世のクーラウの評価に大きな影響を与えた事柄です。もし、彼が自分の作風だけを追求して行く時間の余裕があったなら書かなくてもよい作品は沢山あったはずです。考えてみるとクーラウはピアノのソナチネとフルート曲で音楽史にその名前を留めたのです。彼を有名にした例の作品20のピアノのためのソナチネは注文の作品です。フルート曲の多くは同様に注文作品です。皮肉と言えば皮肉な話です。上記の2つの作品をお聴きになってその違いがはっきりとおわかりになったことでしょう。

  Komponistは作曲家という意味ですがその他に Tonsetzerという言葉がドイツ語にあります。音を当てはめる人、幾分職人的意味合いが含まれているように思われます。クーラウの注文相手の要求に合わす(出版社は音域、ページ数まで限定して注文をする場合があります)技術は卓越しています。まさにTonsetzerという言葉がぴったり当てはまります。出版社の要求に合わせることができたからクーラウは仕事を増やすことができたのです。

 それではどの作品が自らの欲求で作曲されたものなのでしょうか?
 それはこれからのIFKS定期演奏会で証明していきます。

 デンマークの作曲家
 この当時のデンマークの音楽界はどのようなものだったでしょうか。それ以前に活躍した作曲家を含め有名な人の名前を挙げてみましょう。

ヨハン・エルンスト・ハルトマン(1727~1793)
 グルックの古典派的作風を目指し、「バルダーの死」,「漁師」等の劇場作品が有名です。後者の曲の中の「クリスチャン王は高いマストの側に立つ」のメロディは、後にクーラウの「妖精の丘」に用いられています。

ヨハン・アブラハム・ペーター・シュルツ(1747~1800)
 キルンベルガーの弟子で、グルックやグレートリーの影響を受け、大衆的な歌曲に業績を残しています。「ペーターの結婚」,「収穫祭」,「引っ越し」等小規模なジングシュピールを作曲していますが、ハルトマンと同様、民族的色彩が濃いものです。上記の二人は、クーラウがデンマークに来た時はすでに亡く直接的な関わり合いはありません。

フリードリッヒ・ルートヴィッヒ・エミリウス・クンツェン(1761~1817)
 少なからずクーラウとの接触のあった音楽家です。当時、宮廷楽団の楽長でした。クーラウのデンマーク・デビュー演奏会でピアノ協奏曲の指揮をした人物です。モーツアルトの音楽をデンマークに紹介した役割は大きく、作曲家としてディッタースドルフやモーツアルトの影響を受けたジングシュピールを書いています。その奉職中に少なくとも9の劇場作品を残し、彼のオペラ「ホルガー・ダンスク」は近年その評価を新たにしています。

クリストフ・エルンスト・フリードリッヒ・ワイセ(1774~1842)
 いろいろな意味でクーラウと最も関係が深かった作曲家です。彼はクーラウよりも12才年上でした。1789年15才の時アルトナからコペンハーゲンに来て、シュルツ及びグロンランに師事し、1794年に独仏改革教会のオルガニスト、1805年から1842年の没するまで聖母教会のオルガニストを務めました。1816年にプロフェッサーの称号を得、1819年に有給の宮廷作曲家になりました。交響曲、劇場音楽、教会音楽、歌曲などで優れた作品を残しています。彼の交響曲は7曲ありますが、クリスチャン・バッハ、エマヌエル・バッハ、カンナビッヒ、ゴセック、ハイドン等の影響が強いとされています。劇場作品には「睡眠薬」,「ファルーク」,「ルドラムの洞穴」,「マクベス」,「フロリベラ」,「ローセンボア庭の冒険」,「バラーの死」,「ケニルウオースの祭り」等があります。

 当時のデンマークの音楽様式
『盗賊の城』がデンマークに登場した頃のデンマーク音楽についてトラーネは「クーラウ伝記」の中で次のように述べています。

「『盗賊の城』が現れた頃のデンマーク音楽は単純で古めかしい様相を呈していた。それがモーツァルトの没後、約25年が経った時代とはとても信じられないことだろう。クンツェンのように宮廷楽長としてモーツァルトをデンマークの聴衆に紹介し、作曲家としてモーツァルト以前の音楽様式を信奉していた人が活躍していたのである。『睡眠薬』*や『若さと狂気』*も前進の兆候を示したわけではない。何故ならそれら二つのオペラは独創性を示してはいるが古い伝統の上に留まっていたからである。クーラウの大きな意味はデンマークの音楽に新しさを持ち込んだことである。彼は全く新しいタイプの作曲家であった。彼はモーツァルトとケルビーニのデンマークにおける予言者である。彼はモーツァルトを最も愛していた。かつて人が彼の音楽とモーツァルトの音楽とを比較しようとした時、激しくこう言った。「私は彼の靴ひもを解くには相応しい人間ではない」と。結局は大成功を納めた『盗賊の城』は古めかしい様式の信奉者を納得させたのである。何故なら『盗賊の城』にはそれまでの単調なオペラと対照をなすオーケストラの自立性や新しい和声法と関連したモダンな処理など全く斬新な要素が導入されていたからである。」
*『睡眠薬』はワイセが作曲したのオペラの題名、
*『若さと狂気』はデュプイが作曲したのオペラの題名

 ケルビーニの影響
 前述のトラーネの続きです。

「クーラウはこの点に関してケルビーニの影響を最も強く受けている。ケルビーニはシングシュピール『二日間』(又は『水運び人』)においてその対位法的手法を否定はしていないが、いわゆる半音階手法を用いた豊かな和声の使用を特徴づけている作曲家である。恐らくクーラウは『二日間』をすでにハンブルクで聴く機会を持ったにちがいないが、その後1811年、天才的なクンセン(Kudsen)
によって再び上演された。クンセンは最上の水運び人の役を演じた。このケルビーニの音楽がクーラウに強い影響を及ぼしたことはこのような様々なことから明らかである。クーラウがしばしば演奏会で名人芸的曲として弾いたピアノ曲は「水運び人のアリア」の変奏曲であった。カミロのメランコリックなロマンス「死にたいがその勇気がない」は、明白にその美しい「水運び人のアリア」を思い出させるものである。それはクーラウが「水運び人のアリア」を「死にたいがその勇気がない」のモデルとしたと考えられるが、後のオペラ『エリサ』の序曲やその他の多くの個所でもケルビーニの影響を認めることができる。」

 フランス音楽の影響
 さらにトラーネは続けます。

「かつてある人が、パエールの『サルジーノ』の中のアリアとオペラ『ルル』の中のアリアに如何に共通性が有るかを指摘したときにクーラウは次のように言った。
「私はパエールの手に、そしてケルビーニの足に接吻をします」。
『盗賊の城』において全体的にフランスの響きが見出される。例えば終幕のアイマールのアリアは、それをクーラウは聴く機会を持たなかったにせよ、ボワルデューの『パリのヨハン』の騎士精神とかすかな類似性が見られる。このようにして美しいロマンス「ルイ王は軍を率いて出陣する」はそのオリジナル性をフランスの大地に根ざしているのである。『盗賊の城』は音楽の新鮮なNaturを運んだばかりでなく明確なモダンな特徴をもってデンマークのオペラ界に突風のように吹きつけたのである。それは全ての人にとって同じように心地よいものではなかったが。これはすでにバッゲセンの『盗賊の城』の音楽に対する賞賛によってあまねく知られることとなった。バッゲセンは第1幕を「うっとりするほど美しい」と言い表し、「たとえ彼が凡庸なシナリオを用いたとしても、最初から最後まで音楽の素晴らしく美しい陶酔感は、しっかり書かれた劇場のシナリオ作品よりも、長大な劇的ファンタジーを醸し出すやり方に似ている。」と述べている。しかし、「しかし」が続く。「オムレツの曲」(と彼は名付けているが)では、その楽しさをもたらす事柄が何度も繰り返される「オムレツ」によって損なわれてしまっている。それに関して彼は言う。「たったひとつのオムレツのために何という大騒ぎ」と。ほとんど冗談めかして言っているように見えるこの副次的な発言の裏に彼は次のようなことを意図しているのだろう。おおげさに表現する作曲者のやり方に対する叱責、すなわち時々歌を重苦しい伴奏で押さえつけてしまうことである。この言葉は新旧の陣営の気持ちを充分に表している。音楽を判断する上でクンツェンやシャルを筆頭とした時勢遅れの人々からはあまり好意を持って迎えられなかった。クーラウがこのベテランたちと反目しなければならなくなったことは自然の成り行きであった。クーラウ自身は和平的で気のいい人間であったが、その才能を評価していたクンツェンには対峙することになった。そしてシャルに対しても冷たく素っ気ない態度をとった。」

 クンツェンとの確執
 クンツェンは初めはクーラウに対して好意的でした。このような才能をデンマークに留めることの必要性を感じていたのでしょう。クンツェンはクーラウの働き口の世話をしています。劇場のピアニストの働き口の申請に推薦の手助けをしています。しかし、これは不首尾に終わりました。『盗賊の城』以降二人の友好的な関係は終わりを告げます。その後オペラ『魔法の竪琴』事件(シナリオの著作権問題)で対峙する間柄になってしまいます。これについては後述いたします。

 コーミッシェカノン
 クーラウは「謎のカノン」で有名ですが、カノン作曲家の面目躍如の作品があります。1817年(クンツェン没)に出版されたコーミッシェカノン(3声)です。この中の10曲目に「Anticherubinismus」アンチケルビニスムス、(「反ケルービーニ主義」と訳せます)があります。この曲の歌詞の作者は記されていません。恐らくクーラウ自身の歌詞だと私は想像しています。古い様式を代表するクンツェンの作風を皮肉を込めて作曲したことは明らかです。こんなことはクーラウの性格上珍しい事例です。


DF.Nr.183 Komische Canon No.10 [Anticherubinismus]

Ach Musik von Cherubini ist auch gar zu sehr chromatisch!
Dafuer lob' ich mir Hinzens und Kunzens Gasaenge,
die sind ja wie Wasser so klar.

ああ、ケルビーニの音楽は何と半音階ばかり、
だから誰かさんの歌のほうが良い、
水のように透明だから。

Hinzen und Kunzen はドイツ語で「太郎さんや花子さん」という意味があります。どこにもある一般的な名前を指すのですが、たまたまKunzenの名前が使われているところに面白さがあります。


 もう1つ9曲目にクンツェンの「大きな鼻」を揶揄した「O du Nase aller Nasen!」「鼻の王者」と訳される曲もあります。歌詞は「O du Nase aller Nasen! nein, so gross ist meine nicht!」日本語では「鼻が高い、鼻っぱしが強い」という表現と一致するものです。

DF.Nr.183 Komische Canon No.9 [O du Nase aller Nasen!]

O du Nase aller Nasen!
so gross ist meine nicht!

鼻の中の鼻よ!
いや、わしの鼻はそんなに大きくはない!


 コーミッシェカノン(おまけ)
 話がそれますがコーミッシェカノンに触れたついでにおまけです。
 クーラウが生涯結婚をしなかったことに関して共感を覚えたのか次の作品があります。
 作詞はKotzebueです。

DF.Nr.183 Komische Canon No.11 [Hagenstolz]

Nein, nein, nein, ich seh' es endlich ein,
man muss sich bequemen eine Frau zu nehmen.
Bedenk' es genau.
Der Stand der Eh' viel Ach und Weh!
Die Flitterwochen gleisen,
aber hinterdrein, ja hinterdrein
muss man oft in saure Aepfel beissen.

いやはや、まったくもって
男は一人の妻を得る。
考えて見よ。
結婚はなんという苦痛。
蜜月はあっという間に過ぎ去る。
そして後に続くは悔恨の日々。


--------続く