カール・グラウプナー著 「フリードリヒ・クーラウ」脚注

脚注 

*1)付録 家系図(付録はここをクリック
*2) ニーメックの教会の書類にはKuhlauではなくKuhloと書かれている。
*3)付録 家系図参照(付録はここをクリック
*4)トーマス教会の洗礼記録書(1747年133ページ)にはKuhlowと書かれている。
*5)ユルツェンの聖堂の洗礼書1786年
*6)Georg St. ブリッカの『ウイリアム・シェイクスピア』の前言による。文書記録からリューネブルク転居の時期がいつのことであるをはっきりとさせることができない。なぜなら連隊のオーボエ奏者の載っている兵員名簿はもはや手に入れることは出来ないから。連隊は1786年から1796年の頃の時期にはある部隊はユルツェンに、ある部隊はリューネブルクに駐屯した。
*7)Carl トラーネ, Friedrich Kuhlau. Breitkopf&Härtel,Leipzig 1886 3ページ以降 
*8)Carl トラーネ, Friedrich Kuhlau. Breitkopf&Härtel,Leipzig 1886 3ページ以降 
*9)トラーネ前掲書 5ページ
*10)トラーネ前掲書 10ページ
*11)この問題は保留にしなければならない。何故ならリューネブルクの資料館での調査では何も明らかとならなかったから。ただ一部分残っている学校名のリストにはクーラウの言っている学校は無い。
*12)ブライトコップフ&ヘルテル社資料館
*13)ヨハネス・ベステ著、ブラウンシュヴァイク
*14)トラーネ前掲書 6ページ
*15)マルティーノ=カタリネウムの教科プログラム、ヴォルフェンビュッテル州立資料館とマルティーノ=カタリネウム、ブラウンシュヴァイク 
*16)マルティーノ=カタリネウムの学校行事にはクーラウの学業成果についてなにも見られない。
*17)プロシャ国資料館 ハノーヴァー
*18)ブライトコップフ&ヘルテル社資料館
*19)フリッツ・ハルトマン著 6冊のブラウンシュヴァイク劇場史 ヴォルフェンビュッテル 1905、265ページ
*20)上掲書 258ページ
*21)クーラウがシュポアとブラウンシュヴァイクで面識があったかどうかは知られていない。後に関係が生まれたことは確かである。クーラウは彼の大曲ヴァイオリン・ソナタ作品33をシュポアに献呈している。1826年11月14日付けシュポア宛てのクーラウの手紙をカッセル州立図書館が保有している。
22*)オーワスコウ、デンマークの劇場、コペンハーゲン 1862、351/354ページ
23*)コメディエンツェテル ハンブルク 1800/10 付録2参照(付録はここをクリック
24*)18歳の時にすでにオペラを作曲していたということは、1813年にコペンハーゲンで作曲された『盗賊の城』が彼の劇場作品の最初の作品とするこれまでの意見は誤ったことになる。このオペラの断片は見つかっていない。
25*)コメディエンツェテル ハンブルク 1800/10 
26*)コメディエンツェテル ハンブルク 1800/10 
27*)ブライトコップフ&ヘルテル社資料館
28*)トラーネ 前掲書 8ページ
29*)ブライトコップフ&ヘルテル社資料館
30*)ブライトコップフ&ヘルテル社資料館
31*)トーベン・クロー著 18世紀のデンマークのシングシュピール、コペンハーゲン、レヴィン&ムンクスゴース社 1924
32*) この「クリスチャン王」の歌は一番古い形である。アングル・ハマリヒ著 J.P.E.ハルトマン、コペンハーゲン 1916 と比較せよ。
33*)オットー・リース著 J.A.P.シュルツの生涯 (博士論文)SIMG XV, 2., 1914.
   M. ザイフェルト著 シュルツのデンマーク・オペラ A. f. M. 1918/19.
34*)トーベン・クロー 前掲書 207ページ以降
C.A.マルティエンセン ホルガー・ダンスク ZIMG XIII. 7.
35*)・・・ああ、ケルビーニの音楽はなんと半音階的であることよ!それよりもHinzenやKunzen(*)の歌の方がいいね。だって水のように透明だもの。・・・(訳者注(*):ドイツ語の「Hinzen und Kunzen」は日本語で「太郎さんや花子さん」という一般的な名前を指します。ここでは「だれかさん」位の言葉が当てはまりそうです。勿論この誰かさんはクンツェンを指すのですが・・・)
36*)劇場資料 宮廷楽団書類
37*)王立劇場、宮廷楽団記録簿 1806/11  317ページ
38*)ゲオ・St. ブリッカ 『ウイリアム・シェイクスピア』前言
39*)アプト・フォーグラーの「オルガンの即興」における標題音楽を揶揄している文章を参照せよ。
40*)付録3のプログラムを参照(付録はここをクリック
41*)受け取った手紙 1810/11. Nr. 1107
42*) 受け取った手紙 1811/13. Nr. 1122
43*)rbd=Rigsbankdaler リグスダラー:当時のデンマークの貨幣単位
44*)王立劇場、王様の決定 Nr. 85. 1811
45*)宮廷楽団書類l806/11, ジャーナルl. 30ページ. Nr,657
受領した手紙 1810/11. Nr.1177
宮廷楽団記録簿 1811/13. 62ページ
複写記録 1807/14. Nr.127
46*)その後現れたニルス・W. ゲーゼの「オシアン序曲」を比較することも興味あることであっただろう。
47*)宮廷楽団記録簿 1811/13. 1811年12月14日
48*)宮廷楽団記録簿 1811/13, 96ページ
49*)ブライトコップフ&ヘルテル社資料館
50*)王立劇場、宮廷楽団の事項 王様の決定 1784/1815
51*)エーレンスレーヤー「生涯の思い出」第3巻 48/49ページ
52*)アングル・ハマーリヒIllustreret Tidende, 1886, Nr. 50.
53*)コメディエン・ツェッテル1816/17,ハンブルク。ハンブルク・ウンターハルトゥングブラット1816年4月6日、ハンブルク・モルゲンブラット1816年3月28日。
54*)『盗賊の城』スコアとパート譜、ハンブルクSyaay図書館及びカッセル劇場資料館。
55*)カッセル劇場資料館。
56*)カール・トラーネ前掲書19ページ。
57*)大変才能豊かで芸術に造詣が深かった彼の妹クリスティーナ・マグダレーネ(1793年1月20日ユルツェン生まれ)は1825年までコペンハーゲンに住んでいた。その後オールボーに行きインスティテュートの校長をした。音楽の先生。彼女はここから毎年両親と兄を訪問して、1835年その職を辞しライプツィッヒに移り1862年そこで没した。
58*)トラーネが言っているスエーデン旅行が1815年の終わりというのは事実と合わない。なぜならクーラウは1813/16の宮廷楽団記録簿16ページではすでに1815年1月20日にスエーデン旅行の許可を得ているからである。そして1816年の4月にハンブルクにいたからである。これは1814年と考えたトラーネのミスプリントかも知れないが,それでもこれは適合しない。なぜならクーラウは旅行許可を1815年1月20日になって初めて得ているからである。クーラウはコペンハーゲンを1815年2月に出発氏、1815年7月にコペンハーゲンに戻っている。
59*)ヨハン・クリストフ・シュンケは有名なホルン奏者家系に属している。アイトナーの「資料百科事典」を参照。
60*)61*)カール・トラーネの前掲書65ページ。
62*)コメディエン・ツェッテル1816/17,ハンブルク。付録4。(付録はここをクリック
63*)『厚情の祝祭』のパート譜はカッセル・リーダーターフェルの印鑑が押されてカッセル州立図書館に所蔵されている。カンタータはリーダーターフェルによって演奏された。恐らく数年間リーダーターフェルの指揮者を勤めていたルイ・シュポアによって指揮されたものと思われる。
64*65*)コメディエン・ツェッテル1816/17,ハンブルク。付録4を参照。
66*)劇場資料 1815/17  Nr. 141。
67*)宮廷楽団 王様の決定 1784-1815 1813年5月19日、宮廷楽団記録簿 1811-13, 287ページ。
68*)宮廷楽団記録簿 1811-13, 290ページ。
69*)王立劇場宮廷楽団記録簿 1811/13 288ページ。
70*)宮廷楽団事項 1812-17、Nr. 604。
71*) 劇場資料1815/17 Nr. 278. Nr. 288。
72*)エーレンスレーヤー、「生涯の思い出」 第4巻 36/37ページ。
73*)王立劇場 王様の決定1817 Nr.78。
74*)王立劇場 往復書簡記録1817/20 Nr. 66。
75*)王立劇場 王様の決定1816/29、宮廷楽団記録簿1816/18, 270ページ。
76*)複写記録, 1815/17 Nr.279、着信書簡1816/17 Nr. 2463。
77*)参事官兼教授J.I.バッゲセンの学生ペーダ・ヨートに対する『魔法の竪琴』事件の裁判記録、コペンハーゲン1818。
78*)着信書簡 1816/17 Nr. 2519, Nr. 9。
79*)王立劇場 着信書簡1829/31 Nr.1762。
80*) 着信書簡1829/31 Nr.1762に対するもの;1817年5月5日付けのクーラウのオリジナルの手紙のコピー。
81*) コペンハーゲンの王立図書館。 
82*)宮廷楽団記録簿1818/20 4ページ。
83*)複写記録, 1817/20 Nr.349。
84*)Th. オーワスコウ著「デンマークの舞台」第4巻613/4ページ。
85*)複写記録, 1817/20. Nr.387, 464。  着信書簡l821 Nr. 337。  
86*)複写記録, 1817/20. Nr.526, 578。  
87*)複写記録, 1817/20. Nr. 505, 548。  
88*)宮廷楽団記録簿1818/20. 145ページ。  
89*)着信書簡1818/20. Nr. 400。
90*)往復書簡記録1817/20 Nr.101。
91*)着信書簡1818/20 Nr. 400。
92*)複写記録, 1820/23. Nr. 120。
93*)着信書簡1821. Nr. 203。
94*)宮廷楽団記録簿 1820/22 130ページ。
95*)宮廷楽団記録簿 1820/22 131ページ。
96*)ハウクは王宮の侍従武官長だった。
97*)王様の決定l816/29 1821年3月31日。
98*)付録2を参照。(付録はここをクリック
99*)王様の決定l816/29 1821年2月20日。
100*)トリアーはコペンハーゲンの材木商人で、クーラウにとって宮廷よりも市井の人々との付き合いの方が心地よかった友人たちの内の一人。
101*)音楽雑誌1858 Nr. 4 6ページ。
102*) グリュンバウム夫人はヴェンツェル・ミュラーの娘、C. M. v. ウェーバーの手紙参照。
103*) この項目に関してはミュンヘンのパンツァビーター氏の報告に負う。
104*)恐らくクーラウはペーター・ヴィンター及びフレンツェルと知り合いになったと思われる。
105*)ブライトコップフ&ヘルテル社資料。
106*)『魔弾の射手』は1887年までにコペンハーゲンにおいて158回の上演された。
107*) Th. オーワスコウ著「デンマークの舞台」コペンハーゲン1862年。 
F. W. イエーンス「C. M. v. ウェーバーと作品」。
Max Maria v. ウェーバーの『魔弾の射手』序曲がベルマンの演奏会で最初に演奏されたという見解は間違っている。(1820年12月)268ページ。
108*)ワルター・クローネ著「ヴェンツェル・ミュラー」,ベルリン1906(博士取得論文)。
109*)着信書簡1822/23 Nr.782。
110*)着信書簡1822/23 Nr.843。
111*)宮廷楽団記録簿1822/24. 86ページ)。
112*)宮廷楽団事項1821/23. Journal 62ページ Nr. 66。
113*)宮廷楽団事項1821/23. Journal 65ページ Nr. 83。
114*)宮廷楽団事項1821/23. Journal 65ページ Nr. 83。
115*)宮廷楽団事項1821/23. Journal 65ページ Nr. 78。
116*)国立資料館 ハンブルク, 協会の遺体登録 聖ペトリ教会 l823. Nr.121.(46歳) 。
117*)宮廷楽団記録簿l823/24. 119ページ。
118*)着信書簡1821/25 Nr. 1162。 
119*)Th. オーワスコウ 前掲書 758ページ以降。
120*)北欧音楽誌, 1826。
121*)コメディエンツェテル ハンブルク1825 付録5を参照。(付録はここをクリック
122*)宮廷楽団事項l824/27, Journal 255ページ Nr. 816。
123*)宮廷楽団王様の決定1816/29. 1824年11月16日。
124*)着信書簡1824/25 Nr. 1285。
125*)王様の決定 1824 Nr. 103. 667/1825。 
126*) 宮廷楽団記録簿1824/26, 152ページ。
127*) 宮廷楽団記録簿1824/26, 160ページ。
128*) 宮廷楽団記録簿1824/26, 168ページ。
129*) 王立図書館 コペンハーゲン。
130*) 複写記録1823/28.Nr.629。
131*)王立図書館 コペンハーゲン。
132*)イグナーツ・リター・フォン・ザイフリート著「べートーヴェン研究」1832年ウイーン。
133*) アレキサンダー・フィーロック・セイヤー著「ルートヴィッヒ・フォン・べートーヴェンの生涯」ライプツィッヒ 1908, 第5巻. 234ページ以降。
134*) 1929年10月14日 この序曲はコペンハーゲンのある演奏会で、いまだに演奏されている。
135*) Th. オーワスコウ 前掲書 第4巻796ページ。
136*) ニコライ・ボー著「クリスチャン・ヴィンター」46/47ページ。
137*)クリスチャン・ヴィンターは1796年7月29日シェラン島のフェンスマルクで生まれた。コペンハーゲンで神学を学びイタリアに行き、1841年ノイシュトライトリッツに行った。それは後のフレゼリク3世の恋人にデンマーク語を教えるためであった。帰国してヴィンターはデンマークに住み、1876年12月30日パリで没す。ヴィンターは新時代のデンマークの詩人の中でも叙情詩において傑出している。最初の詩集は1828年に出版された。彼は古い民謡の蒐集に従事したが、1840年「戦いの歌」選集として出版された。
138*) クーラウの手紙は殆どドイツ語で書かれている。彼がデンマーク語での請願書を提出する場合は他の人の筆跡となっている。
139*)エーレンスレーヤー著「生涯の思い出」第4巻、36/37ページ。
140*)王様の決定Nr.162, 1827。
141*)複写記録1823/28. Nr.785。
142*)Th. オーワスコウ 前掲書 第4巻842ページ。
143*)宮廷楽団事項1828/30 Journal 274ページ Nr. 220。
144*)宮廷楽団記録簿1828/30 5ページ。
*145)ロベルト・ナイエンダム著「王立劇場の歴史、1875/1922」21ページ。
*146)ヒャルマー・トゥーレン「デンマークの民謡」ZIMG 1907/08 12ページ。
*147)ハイベア宛の手紙 国立資料館 コペンハーゲン。
*148)宮廷楽団事項1828/3a,省庁の記録簿 s. 240 Nr。235。
*149)王立図書館 コペンハーゲン。
*150) 王立図書館 コペンハーゲン。
*151) ブライトコップフ&ヘルテル社資料。
*152)ロクス・フォン・リリエンクロンが1878年に論文「Chr. Fr.ワイセと前世紀以来のデンマーク音楽」の中で「1810年彼(クーラウ)はあちらからコペンハーゲンに亡命してきた。そして宮廷楽団で卓越した芸術家として首席奏者を務めた。」言っている。(ラウマー-/リート、「歴史的日記」1878年)。
*153)カール・アウグスト・クレプスは1804年1月15日、カールとシャロルテ・ミートケの息子としてニュルンベルクで生まれた。1806年シュツットガルトにおける母親の死によりクレプス夫妻の養子になった。シュツットガルトからウイーンに行き1828年まで留まり,1850年ドレスデンに行った。1880年5月16日ドレスデンで没する。
*154)「モシェレスの生涯」より第1巻 213ページ。
*155) クーラウは一般音楽新聞(AMZ)の彼のカノンによって有名だった。
AMZを参照. 13.年版 679,763ページ、15 年版 40ページ、21年版 32ページ、23年版 460, 591, 847, 867ページ。クーラウがべートーヴェンを訪ねたときべートーヴェンの第1声は「ああ、偉大なるカノン作曲家さん」であった。
*156) V. リヒラー「100年間の死亡」1790/1890。
*157) 王立図書館 コペンハーゲン。
*158) 着信書簡1829/31. Nr.186。 
*159) アダム・エーレンスレーヤー著「生涯の思い出」第4巻 44/45ページ。
*160) コペンハーゲン北方管轄署・区警察記録簿1830/32。
*161) 彼はニューハウン12番地に住んだ。
*162) コペンハーゲンの聖ペトリ教会埋葬記録簿。
*163) クーラウはワイセと共に1828年3月7日に学生協会の名誉会員として選ばれた。学生協会のために作曲した彼の愛唱された男声四重唱曲は今日においても大学生歌唱曲集に載っている。
*164) クリスチャン・ヴィンター「詩集」第1巻31ページ。
*165) N. ボー著 「クリスチャン・ヴィンター」 53ページ。
*166) カール・トラーネ 前掲書 98ページ。