ゲーオ・ブリッカ 「クーラウについての覚え書き」

この資料はIFKS会報2015年版に掲載されたものです。
クーラウ研究の貴重な資料です。
ここに転載致します。



 デンマークの音楽史家、ゲーオ・ステファン・ブリッカGeorg Stephan Bricka(1842-1901)の当時の筆記体で書かれた自筆の資料「いろいろな人々からの口頭の報告を集めたフリードリッヒ・クーラウについての覚え書き」(31葉)は王立図書館に所蔵されています。ブリッカはクーラウと直接には会っていません。なぜなら彼はクーラウの死んだ10年後に生まれた人ですから。ブリッカがこの記録を行った1872〜3年と言えばクーラウの死後40年以上も経っています。クーラウの同時代の人たちの多くはすでにこの世にいない時代です。生き残っていた生前の友人、知人にインタビューをしてクーラウの人となりを記録してくれたおかげでその後のトラーネの「クーラウ伝記」(1875年)も生まれたのです。トラーネの文中には、いろいろな箇所でブリッカの引用が認められます。ブリッカがこの仕事を始めたきっかけは1873年に出版された『ウイリアム・シェークスピア』作品74(Samfundet til Udgivelse af dansk Musikデンマーク音楽出版協会版)のピアノスコアの前言にクーラウのことを書いたことが考えられます。この楽譜の前言は簡潔ながらクーラウの生涯について公になった初めての文献です。この「口述記録」の中の人名で歴史の闇に隠された人もあります。また、その人たちの記憶も曖昧になっているものもあり、史実にそぐわないものもあります。文中にあるいくつかの逸話はトラーネの「クーラウ伝記」には書かれていません。雑談をしながら、いとも楽々とオペラのオーケストレーションをしていた話は、『妖精の丘』の手書きスコアから現代譜に書き直してみて、クーラウのオーケストレーションが如何に優れているかを実感している私にとっては驚きです。ブリッカの記録からクーラウの人物像が垣間見られることは興味深いことです。
判読の難しいゴシック体のブリッカの自筆を現代の活字に直して下さった福井信子先生に感謝をこめて・・・
石原 利矩


 

「いろいろな人々からの口頭の報告を集めたフリードリッヒ・クーラウについての覚え書き」
Georg St. Bricka 1873年

 Paulli*はリュンビューのクーラウの所にやって来て、彼の作品をそれが公開の場に登場する前に通し演奏をした人達の内の一人である。彼は夏によく演奏をした庭のあずまやのことを回想している。それは現在は取り壊されてしまっている。しかしクーラウとのごく親しい交際はパウリはしていない。クーラウが引きこもった生活をしていたのでそうなったに過ぎないと彼は言っている。
 クーラウはお金に困ると-それはしょっちゅうのことであったがローセ**の所にやってきた。そして1曲のソナタを2~4ダーラーで書くという契約を結び、それはすぐさま執り行われた。
 パウリはクーラウが非常に完璧にピアノを演奏したのをしばしば聴いている。すなわち彼は初見で素晴らしく演奏した。この点に関して彼はワイセと全く対照的である。ワイセは彼の知らない曲の楽譜を見て何か演奏しようとする事は、決してなかった。
 クーラウが作曲を簡単にやってしまうことに関してパウリは述べている。彼自身が実際に見たことだがクーラウがオペラ作品のオーケストレーションをしている時、仲の良い友人達の中に座っていて、その間彼は話をしたり、質問したり、答えたり、彼らがクーラウに物語を話したりしていたが、ペンは五線紙の上を休むことなく走っていた。
                H. S. Paulli 1872年9月27日
訳注:
*Paulli, Simon Holger (1810-1891) ヴァイオリン奏者、作曲家
** Lose, Carl Christian (1784-1835) 楽譜出版業者

 

 クーラウはシュポアの音楽を「全く美しいものかも知れないけれど、しかしどんなに火を通しても決して煮えない」と表現していた。
                H. S. Paulli 1873年2月16日

 クーラウがブライダム通り(Blegdamsvejen)に住んでいた時、ファイルベア(Feilberg)はしばしば彼に会った。彼は午前8時から午後1時まで作曲し、それから町に出かけ午後4~5時に昼食のため戻ってきた。午後にはタバコを吸い、そして赤ワインを飲んだ。(彼は毎晩12本飲んだと言われている)
 クーラウにはカルカッタで仕事をしていた一人の兄弟がいた。(多分、弟であったろう。)* 彼は6歳の息子と一緒にこちらにやって来た。そして彼がこの町に滞在していた時、真向かいに住む、ある若い娘と恋に落ち彼女と結婚した。そしてクーラウはその子供が東インドに帰りたくないと考え彼を引き受けることになった。そしてこの若いフレデリック・クーラウ**は何年もファイルベアの両親の家に留まった。
 他にもクーラウがいた。・・従兄弟と考えられるが・・すなわちSophus Kuhlau***である。彼は王立楽団のチェリストであった。
 クーラウは自分自身ではフルートを吹かなかった。彼がフルート曲を何か作曲した時は、当時非常に尊敬されていたフルーティスト、ブルーン****の所に行きそれが演奏可能かを訊ねていた。ブルーンはそれを彼のために演奏した。
 若いFr.クーラウ*****は、後に人間関係がまずく(恐らく女性問題)なったためこの国を去り、ロンドンに旅立った。
                Feilberg 1873年3月17日
訳注:
*David Gottfried Martin (1780-?) クーラウの長兄ゴットフリート
**Kuhlau, Georg Friedrich (1810-1878) ゴットフリートの長男、クーラウの甥、後にピアニストとなる
*** SophusはSørenの間違いと思われる。
****Bruun, Peter Christian (1784-1852) 宮廷楽団フルート奏者
*****クーラウが養育した甥のこと

 Soph.クーラウは(18)50年代に入ってからもまだ生きていた。彼はよくシャンサ(Chansa)の家にやってきた。
                Th. Bricka 1873年3月17日

 

 フリーメイソンの調書にはクーラウ自身、彼の生年月日を1785年9月11日と届け出ている。*
 リュンビューのクーラウの家が火事になった後、すぐダヴィズ(David)**はクーラウを訪ねている。そして彼の経済状態が非常にめちゃくちゃになっているのを知った。そのため彼はクーラウに何かをしてやることは出来ないかをワイセと話し合った。そして1931年の初めにクーラウのために宮廷劇場(Hofteatret)での演奏会が催された。その際「厚く、黒い雷雲」(Tykke sorte tordenskyer)の歌が歌われた。歌詞はダヴィズが書きワイセが作曲した。
 クーラウが『盗賊の城』を作曲した時、彼はそれを見せるためワイセの所に行った。そしてワイセがレシタティーヴォのいくつかの誤りを指摘した。しかしクーラウはこう答えた。「いつもそんなことばっかり!」(Kommen Sie nur da!)
 かつてワイセはベアグレーン(Berggreen)***にこう言ったことがある。「“盗賊の城”の中にある最初の二重唱のようなものは、今生きているドイツ人の作曲家には誰も書くことが出来ない」
 S.クーラウは兄弟よりずっと若い。
 ベアグレーンの蔵書の中にブラインテンディックのコラール集があるが、その中には何人かの名前が書かれていて、1776年の箇所にJ.D.クーラウの名前が見られる。
 クーラウが人前では演奏しなかったと請け合える、とベアグレーンは思っている。彼は一度だけクーラウがピアノを弾いているのを聴いたのを覚えているが、それは彼には大した印象を与えなかった。 
               A. P. Berggreen 1873年3月25日
訳注:
*ギムナジウム-Martino-Katherineumの学生登録簿には次のように登録されている。
193)Daniel Fridericus Rudolphus Kuhlau
n.11 Sept.1785 Uelzena-Luneburgien
** David, Christian Georg Nathan (1793-1874) 政治家
*** Berggreen, Andereas Peter (1801-1880) 作曲家

 

 ベアグレーンは1776年のサインのあるJ.D.クーラウはオールボー、あるいはオーフースで生活をしていたという噂を聞いた記憶があると言っている。
               A. P. Berggreen 1873年3月25日

 王立楽団のチェリスト、セーアン(ソーフスではない)・クーラウはクーラウの兄弟ではなく従兄弟である。それに対してクーラウにはKapに住んでいる(カルカッタではない)やはり音楽家の一人の兄弟がいた。そしてその人の息子、若きフレデリック・クーラウは父の家から出てやってきた。彼らがコペンハーゲンを訪問中、父は悪い評判の女性と結婚した。クーラウの兄弟の名前を思い出せないが多分弟であった。*
 ブルーン(Bruhn)夫人の家におけるクーラウの話は(R.Lund)は確証を持っているわけではない。何故なら彼はクーラウから直接聞いた訳ではないから。(それに対して雨傘についての話はクーラウ自身が彼に話している。)しかしそれは立派な方々と全然馴染めないクーラウの性格をよく表している。それ故、同様に黒い服を着用し、上品に振る舞わなければならない宮廷に出向かなければならないことには彼にとって耐え難いことであった。そこで彼はこっそり抜け出すこともあった。そしてスウェーデン旅行をしてしまった。そこで彼はある時期過ごし、この旅行の結果スウェーデンの民謡による変奏曲が生まれた。この旅行は1818年までには行われたはずである。
 この年に(1818年あるいは1817年?)ロン**はクーラウと知り合いになった。彼はその他の何人かと一緒にクーラウの授業を受けた。彼らは大抵楽器製造者ウルデール(Uldahl)の家で勉強した。
 この時期、クーラウはヴェスター通りに住んでいた。そこにはすでに彼の両親が住んでいた。その後、そこを引っ越しフェレズ通りの料理店経営者の家に間借りした。彼にはその方が安上がりだったということで。これはロンが彼のレッスンを受けていた時期のことである。何故なら、彼は彼らが一度クーラウの家で勉強しなければならなかったこと、そしてクーラウは自らテーブルの真ん中に置いてある調理器で焼いたビーフステーキを彼らにご馳走したこと、その器具を実験することをクーラウが面白がっていたことを覚えているからである。
 その後、クーラウはブライダム通り(Blegdamsvejen)に引っ越した。ロンは一度、そこを訪ねたことがあった。夜遅くなってロンはシャルロッテンボーの彼の自宅へ、やはり遊びに来ていた静物画家のフリッチェと一緒について行ったことを覚えている。しかし彼らがクーラウの所で夕食を食べたと言うことは大いにあり得る。しかし、ロンはクーラウの両親か姉妹の姿を見たかということは全然覚えていない。
 ロンがクーラウを知る以前にクーラウは例えばホーネマン、ヘンリク、マイヤー・トリアー(?)、商人ヤコブセン(そこで彼は後にヴァレンティーナ夫人となった娘にレッスンしていた)などのいろいろな家庭に出入りしていた。当時彼は、貴族や宮廷の出入りはやめていた。彼の現れるところは、自分の家のように振る舞える所ばかりであった。
 クーラウの最も心をかけた弟子の一人は前述のヤコブセン嬢(ヴァレンティーナ夫人)であった。彼女は彼女が音楽普及のための集まりで彼のf-mollのコンチェルトを演奏するようになるほど彼の教えにより、目覚しく上達した。これはすぐれた作品でクーラウの最上のものかも知れないが、火災に遭い失われてしまった。ヴァレンティーナ夫人はまだフィナーレのテーマを思い出すことができた。・・故人になったゲーアソン***もクーラウの弟子の一人である。
 クーラウは必要にせまられた時自分の言いたいことを伝えられる以上には決してデンマーク語を習得しなかった。彼自身はいつもドイツ語で話した。交際においてはクーラウは快活であった。しかし、知らない人の前では非常に控え目でおとなしかった。多くを語らず、彼がしゃべる時はかなり早口で感想や意見は非常に短い文章でまとめた。
 彼はいつも犬を飼っていた。彼が以前飼っていた最初の犬は大きい猟犬で「アレグロ」と呼ばれていた。後に飼った犬は「プレスト」と呼ばれた。
 クーラウの遺品のオークションで彼がいつもたずさえていた杖が売られた。太い竹で、彼の名前が彫られた大きな金の握り柄が付いていた。
             A. Lund 声楽教師 1873年4月10日
訳注:
*ここでもLundは兄のことを弟と言っている。
** Lund, A (ca. 1800-1873以後)
*** Gerson, Nicolai (1802-1865) ピアニスト

 モーア*とクーラウとの付き合いは1824年に始まった。宮廷楽師ヘーセ (Hase)、フレデリック・クーラウ(甥)と一緒に彼の理論のコースを取り始めた時である。モーアは同時にクーラウのピアノのレッスンも受け、この時から彼はクーラウとよく会うようになった。
 クーラウは『盗賊の城』の大部分、いずれにせよ第2幕全部をレーヴェンボーのカール・レーヴェンスキヨル男爵の家で作曲した。そこへはその時もそうであったが、後にもしばしば訪れた。クーラウはその家族に大変親しみを感じていたのでクーラウはモーアにそこに座って前述の第2幕を書いた庭園の中の島の中にあるあずまやを示したことだろう。
 クーラウとブルーンの交際についてはモーアは何も知らない。そこへワイセはよくやって来た。
 1823年の新年(あるいは1822年)、ブルーン(フルート)、ヴェクスシャル(ヴァイオリン)**、二人のモーア兄弟(ヴィオラ)、セーアン・クーラウ(チェロ)等はノアブローの“孤独”と呼ばれる彼の家でクーラウの3曲の五重奏曲を自筆譜で演奏した。それは、その曲が演奏された最初の時であった。クーラウは非常に上機嫌であった。ウェクスシャルはブレネー(Brenøe)嬢と婚約したばかりの頃で、彼女もまたその場に居て歌った。
 クーラウは大体において気持ちが良く親しみの持てる人であった。特に頼み事や手助けを人から求められると心から喜んで引き受けた。彼の忠言を求める若い音楽家に対してもそうであった。それに反してウェーバーや他の人気のある音楽家に対する感想はしばしば厳しい批評であった。Cl.シャル***を彼は好きでなかった。モーアは彼がリュンビューのクーラウの家の垣根の所でクーラウと立ち話をしているところを見たが、シャルは明らかに中に入れてもらいたいと思って期待していたが、クーラウは何も言わなかった。
 クーラウは決して学校の声楽教師になったことはなかった。(ロンはそう書いて居るが)それはクロッシング(Krossing)****であった。それに対して劇場にカロリーネ・ヴェルターを入れたのはクーラウであったというロンの言っていることは正しいようだ。
 クーラウの演奏は決して表情のないものではなかった。演奏中の彼の動作も人目を引くもので、特に肩をあげる動きはしばしば滑稽であった。
 ワイセとクーラウの間には緊張した人間関係はなかった。しかし、この二人に組みしようとする人達によって音楽界には二つの派が生まれ、互いに対立する両陣営の抗争が起きた。
 クーラウは次のような話を面白がっていた。
 クーラウはある晩劇場に行こうとしている時、彼に切符を売りつけようとした一人のダフ屋に呼びかけられた。クーラウは断ったが、その男はこう言った。「おやおや、買いなさいよ、やじり倒さなくちゃならないんだから」。この時の出し物は彼自身のもので、恐らく『ルル』であったに違いない。しかし、モーアは他のものだと言っていた。
 クーラウがリュンビューで住んでいた場所は自分自身のものではなく借りているものだった。モーアは短い時も長い時もあったが夏に彼の家に何回も泊まった。特に1826年の暑い夏には。その家が焼け落ちてしまったとき、クリスチャン皇太子は城に住居を提供したが、彼の遠慮深い性格からそれを辞退した。
 クーラウは最後のとき、コペンハーゲンのニューハウンに住んだ。彼はゴーター通り(Gotersgade)に家を借りたがそこに引っ越す寸前に死んだ。彼は死の直前まで気力はしっかりしていた。
 クーラウはモーアに彼の最初の20の作品はそれに対して何も収入を得たわけでなく、それらはドイツで出版され、彼は有名になるために出版しただけであると話した。後にローセの所で出版したものは代金が支払われ、それによって彼はよい収入を得た。
 だが彼は常につましい生活だった。大勢を養わなければならかったからである。すなわち、彼といつもいっしょにいた年取った両親、彼の虚弱な妹(セムシであった)、兄の子供フレデリック・クーラウ、クーラウが姪と言っていた従兄弟S・クーラウの妹の若い婦人である。彼女がどうなったかモーアは知らない。彼は彼女が歌っていたとは信じていない。「クンツェンの“征服者と平和の君主”(王立博物館蔵)の第2ソプラノ(=アルト)のNo.7に、後の人の手でクーラウ嬢と書かれている。」
 クーラウが酒好きであることは否定できない。彼が何も食べられなくなってしまうことがもっと悪いことだった。彼は数え切れないほどタバコを吸った。
 クーラウはよく読書した。特に詩を。彼はデンマーク語をよく理解した。しかし話すのは非常に下手だった。それもたまたま面白がって話す時だけであった。レーヴェンボーに行く旅行中に給仕娘とふざけてデンマーク語でブロークンに話した。
 ベートーヴェンとの話(Kühl nicht lau)をクーラウはモーアに話した。モーアは、クーラウがベートーヴェンをしばしば訪ねたと言っている。クーラウはベートーヴェンの作品に対して大いなる賛嘆の念を懐きベートーヴェンの室内楽のスコアをいつも側に置いていた。
 S.クーラウの父親についてはモーアは何も知っていない。しかし、S.クーラウとヘーセは・・同じ頃に違いない・・二人ともユラン(Jylland)からやって来たと言うことは知っている。
 容器を持って転んだということについてクーラウはモーアに話した。彼は当時8~10才の子供だった。そして何か飲み物のため容器を持って町まで使いに出された。彼は転んで目を打った。家に帰るともう一方の目を助けるためにすぐ包帯が巻かれた。長い闘病生活の間に、ベッドの上(あるいは側)にツィンバルンが置かれ、これを一生懸命に弾いたことにより彼の音楽的才能が初めて目覚めたと、クーラウは言った。
               Mohr 宮廷楽師 1873年4月2日
訳注:
*Mohr, Johan Ludvig (1800-1884) ヴァイオリン奏者
**Wexschall, Frederik ( ) ヴァイオリン奏者
***Schall. Claus Nielsen (1787-1835) 作曲家、王立楽団楽長
****Krossing, Peter Caspar (1793-1838) 作曲家

 J.P.E.ハルトマン*はクーラウをクリスマスあるいは新年にマーシャル(Marshall)の家で会ったことを覚えている。マーシャルはハルトマンの祖父の親友であった。ハルトマンらは彼らの前で演奏をした。感銘を受けたクーラウは彼の首に抱きつき彼にキスをした。
               E.Hartmann 1873年4月12日
訳注:
*Hartmann, Johan Peter Emil(ius) (1805-1900) 作曲家

 後にマイヤー&トリヤー商会の支配人となった商人トリヤーはゲントフテに別荘を持っていた。1817~19年にクーラウはよくそこにやって来た。甥の判事、トリヤーはクーラウがビールの瓶あるいはコニャックを前に置いて座っていたのをよく覚えている。
              判事 トリヤー 1873年4月12日
(追)クーラウは朝に驚くほど次から次へと沢山飲んだ。時にはティーポット3杯に及んだ。
                Mohr 1873年4月12日

14~15ページに出ているクーラウ嬢とは、クーラウ*の妹に違いない。彼女は音楽的素養があり、音楽を教えていた。
                Paulli 1873年4月14日
訳注:Søren Kuhlauのこと

 セーアン・クーラウの父親はヨハン・ダニエル・クーラウでオールボーのオルガニストである。だから彼がJyllandからこの町に来たというのは正しい。彼がやって来てから2年間、彼の従兄弟の作曲家の家に住んでいた。彼は宮廷(音楽家)の職を求めたが、フルーティストとしてかチェリストとしてか、しばらくの間迷っていた。モーアが(14ページ)述べている若い娘とはセーアン・クーラウの妹である。彼女は短期間コペンハーゲンに滞在し、部屋がなかったのでその作曲家の所に住んだ。
 クーラウは二人の兄弟を持っていた。二人とも彼より年上であった。その内の一人は音楽家で最初はKapにいたが、後にカルカッタに住んでいた。彼は2度結婚をしている。最初の結婚で二人の男子、一人の女子の3人の子供をもうけたが2度目の結婚では子供はいなかった。3人の子供は1822年頃かれがコペンハーゲンにやって来た時一緒であった。彼が旅立つ時、長男のフレデリック・クーラウは残り、叔父の家に住むことになった。彼は当時12才ぐらいであった。娘は父親と一緒に帰り、次男は旅行中に亡くなった。その娘は結婚し、現在は継母と同様カルカッタにいる。フレデリック・クーラウは何年か前にロンドンに行き、2年半ほどそこに居たが、カルカッタの継母と妹の所に戻った。恐らく彼はそこで死んだらしい。彼が向こうに行った時、彼から家族に便りがあった。しかしそれ以後は何もない。すでに3年半経っている。・・・もう一人のクーラウの兄はライプツィヒに住んでいて、大きなタバコ工場を持っていた。彼はお金持ちで二人の息子がいた。一人は音楽家で、それに対してもう一人は父親の仕事を手伝った。しかし父親も音楽家の息子も死に、もう一人の息子はクーラウの虚弱な妹で未婚の叔母、マグダレーナ・クーラウに、うちに来て家の面倒を見てくれないかと頼んだ。彼女はそれまでクーラウの所に居たのである。彼がその後結婚したかあるいは子供がいるかは知られていない。名前が伝えられているのは彼一人である。
 マグダレーナ・クーラウはかなり個性的である。すなわち、彼女は同じ環境に永いこと暮らすことができなかった。14~15ページに出ている(17ページを比較せよ)クーラウ嬢が彼女のことかはS.クーラウ未亡人は疑っている。何故なら、彼女(S.クーラウ未亡人)は彼女(マグダレーナ・クーラウ)をかなり永く知っているが彼女が歌ったことを一度も聴いたことがないからだ。彼女が教えていたことは確かだが、しかしそれはおおむね語学である。その点で彼女は卓越していた。彼女は全体として非常に教養のある女性であった。彼女がライプツィヒの甥のもとに来た時、彼女の安住を好まない性格を彼女は否定していない。何故なら彼女はその後、すぐそこを去っているからである。1857年に演奏会が行なわれたのは彼女のためであったにちがいない。
 クーラウの家を訪ねていた彼のもう一人の姉にクーラウ未亡人は一度だけ会っている。彼女は結婚していたが彼女の名前をクーラウ未亡人は忘れてしまった。彼女はマルヘン(Malchen)おばさんという名前で呼ばれていた。(アマリエという名前のクーラウの姉はいない)*
 クーラウの父は特に有能な人ではなかった。息子の家に居る間に、いくらか音楽のレッスンをしていたが、後年何もしないで家に引きこもっていた。それに対して母親は少なからず才能を持った人であった。クーラウは中でも特に可愛がられた息子で彼は彼女に対して非常に恭順の気持ちを抱いていた。
 普段の交際ではクーラウはやさしかった。彼の恥ずかしがりやの本質は認めることができなかった。そもそも彼は美男ではなかった。背は高かったが不格好な体格であった。
 一方彼の目の表情は素晴らしかった。特に彼を朝訪ねるとそうである。彼がナイトガウンに身を包み、真っ白なリンネルを首に付け、無造作にスカーフを巻き結んでいるのは一番よく似合っていた。ちょうどベーアンセン**の銅板画に描かれているように。(自筆で名前が書かれている)
 従兄弟のS.Kと彼は常に行き来していた。ある時は毎日のように。晩年はそれ以外はそれほど多くの人と付き合ってはいなかった。やはりリュンビューに住んでいたシャルの所にもあまり行かなかった。ヴォーエペーターセンの所も同様である。彼の最後の何年間は彼はものすごく孤独で家族との生活を恋しがっていた。
 それに対して昔は彼は誰かに愛情を捧げようとは思わなかったらしい。だが彼に愛情を覚えた人は少なくはなかった。
 彼の若い時、彼は身分の高い人達の付き合いの中でクリスチャン皇太子(後のクリスチャン8世)との親愛の知己を得た。そこにしばしば招待されそこでご馳走になり演奏をした。
 クーラウはことのほか勤勉であった。しばしば楽想が思いつくと、夜中に起き出しすぐさまそれを演奏した。しかし彼は仕事の報酬は悪かった。彼の家計は彼にとって費用のかさむものだった。養わなければならない者が沢山居たので。彼自身やりくりが下手だった。1830年か1831年にどこかに旅行したというが(A.ロンが彼の手記で想像したように)それは全く信じられない。彼の健康はこの年全く損なわれていた。彼はその上半年も病院に入っていた。
 彼自身が語ったところによると、帰って来るや否や町の中に身を隠さなければならなかった。それで彼はランドタワー***に間借りをした。
              クーラウ未亡人**** 1873年4月15日
訳注:*Sophie Clara Amalie Kuhlau (1774-1851) クーラウの長姉
**Bærentzen, Emilius (1799-1868)
***Runderårn: コペンハーゲン市内にある有名な建物、クリスチャン4世の建造物
****Søren Kuhlauの未亡人, Anne Marie Gaarn (1801-1881)

 

 パウリがしばしばリュンビューにやって来たのはクーラウ自身の家でなく、ヴォーエペーターセンの家であった。彼(ヴォーエペーターセン)はそこに別荘を持っていた。彼(パウリ)はそこで彼(クーラウ)に会った。そこではまた、書き上げたばかりのクーラウの作品が演奏された。ヴォーエペーターセンは壁に囲まれとても広々した道路に面した別荘を持っていたが、そこで夏に彼らは演奏した。
                 H.パウリ 1873年4月15日

ローセの店にいたドイツ人のハスハーゲンはクーラウの右腕となった人で、全てにおいて世話をした。彼はクーラウが引っ越しをするとき家を探し、クーラウが計画をしたことを彼の言う通りに行った。
                  H. パウリ 1873年4月15日
訳注:
*Hashagen, Gerhard Diderich (ca. 1792-1859) ピアノ制作者

 

 クーラウはレーヴェンボーに行く途中ボアヴァイレ(Borrevejle)の森を通って歩いて行った時に『盗賊の城』の中の「盗賊の歌」を作曲した。
        Kmh・レーヴェンスキヨルド 1873年4月16日

 1813年の夏、クーラウはレーヴェンボーに4ヶ月滞在し、そこで『盗賊の城』を作曲した。彼はその家の良き友人のようであり、男爵夫人の歌に伴奏した。そして彼女に自ら楽譜を書き趣味良く装丁し、彼女に贈呈したイタリア語の歌詞によるロマンスを作曲した。この作品はまだ出版されず知られていないが、伯爵夫人(Mofen-stjerne)の家にある。家族の生活の喜びと悲しみを彼も共に感じ、それを表現した。男爵夫人は彼を信頼のおける友人、及び尊敬する人物として回想している。・・夏の滞在が終わると彼はコペンハーゲンに帰って行った。しかし冬に再びレーヴェンボーにやってきて彼らの客となろうとした。しかしその時男爵夫人は城にいなかった。そして彼はコペンハーゲンに戻った。この時クーラウは彼のカバンをなくした。
          レーヴェンボー男爵夫人 1873年4月16日

 ゲバウアーの知る限り、クーラウは教師として非常に優しかった。彼(ゲバウアー)が彼(クーラウ)のレッスンを受け始めた1826年からクーラウが「妖精の丘」を書かなければならなくなった1828年まで彼(クーラウ)との付き合いが続いている。その時、彼(クーラウ)は旅行を計画していたが、やはり上述の理由から実現しなかった。そしてその後も実現されることはなかった。
 彼は驚くべき速さで仕事をした。ある時、彼はローセから5オクターブピアノのために4つのソナタを書く依頼を受けた。・・・それは丁度『フーゴーとアーデルハイド』を作曲していた時であった。・・・彼はその4曲を土曜日から日曜日にかけて仕上げてしまった(作品88)。後に彼はバイオリン・パート(アドリビトゥム)を付けた。
 非常に暑い夏にゲバウアーはリュンビューのクーラウのもとにやってきた。その時クーラウは校正を読んでいた。彼は写譜屋が全く思いのまま書かれた様々な小さな音符で彼の作品に手を入れていることに対して非常に怒っていた。彼はそれらをわざわざ消していた。後でゲバウアーが自筆譜を見てみると、作曲家を手助けしてこれらの音符を加えたのは、リュンビューの婦人達であったことが分かった。それがクーラウの独特の正しい書き方だと思い込んだ写譜屋はきわめて忠実に再現しただけなのである。
                ゲバウアー* 1873年4月18日
訳注:* Gebauer, Johan Christian (1808-1884) 作曲家

 ゲバウアーは、クーラウが永年に亘って書いた作品が焼け彼が持ち出したものは消しゴムに鉛筆といつも彼の家にいた一匹の猫であったとファブリキウスに語った。この事件が彼に打撃を与えその後に作曲したものにたいしたものはない。そしてこれが彼を若くして死に追いやったのだろう。
              J.ファブリキウス 1873年4月18日

 クーラウを少し知っているヴィンター(Chr.Winther)*はエアスレウ(Erslev)**に次のように語った。自分の覚えている限りでは転んで目を打った時、彼は薬を取ってくるところであった。彼の療養中に弾いていたピアノはベッドの上に持ってこられた。
 Chr.Wintherは一度エアメロンの館***に住んでいたニールセン****の家でクーラウと一緒になった。そこでクーラウはものすごく酔っぱらった。彼がエアメロンの家からリュンビューに帰るときヴィンターは彼について行かなければならなかった。そして死ぬほど疲れた。数日後クーラウは食事を用意し、そこにはニールセンが居た。クリスチャン・ヴィンターも同様に招待された。彼は少し遅れて到着した時、客は席に着いていた。しかしヴィンターが部屋に入るとクーラウはすぐさま椅子から立ち、ふたが開いていたピアノの方に走っていき「一度も酔っぱらったことのない者は、素敵な男じゃない」を演奏した。
 クリスチャン・ヴィンターはクーラウからハンブルク時代の次の話を聞いた。シュヴェンケ*****には一人の娘がいた。彼女はクーラウを毛嫌いしていた。彼女は(彼のことを)気持ちの悪いくらいひょろ長く、片目の若者と考えていたのだ。ある日、クーラウは先生のところにやって来た。しかし先生は外出中だった。そして、クーラウが彼を部屋で待っている間、シュヴェンケのパイプ(にタバコ)をつめて、それを持ってシュヴェンケが家に帰ってきたらパイプをどこかに架けられるようにと窓辺に腰を下ろしていた。これを見ていた娘はシュヴェンケが家に帰ってきた時にクーラウがなんと恥ずべきことをしたかを彼に話した。シュヴェンケは非常に腹を立てクーラウを「馬鹿者」とののしった。クーラウは彼の叱責を打ちのめされた気持ちで聞いた。そしてシュヴェンケが最後に「奴のやったものを見てやるとするか」と言ったときクーラウは震えながら彼が持ってきた曲を差し出した。なおも怒りに満ちあふれながらシュヴェンケはそのノートを開け1ページ1ページめくっていった。その間、クーラウは彼の前にかしこまっておとなしく立っていた。しかし、シュヴェンケがそのノートを全部見終えたとき、彼はクーラウにこう言った。「パイプ(にタバコ)をつめなさい。クーラウさん。」それはシュヴェンケが彼にさん(Herr)付けで読んだ最初のことであった。そしてクーラウは彼の人生で最も誇り高き瞬間であったと言っていた。・・・これと同じ話をエアスレウはホーネマン******の家で聞いたことがある。しかしその時はシュヴェンケの娘がクーラウに対して持っていた反感については何も話されなかった。
 オウアスコウ*******の記述では、シュヴェンケがクーラウのことを「本当の音楽的な友人」と表現しているが、彼(オウアスコウ)はウルデールからそう聞いたのである。
A.ロンはクーラウが思いやり深いと自分(ロン)は思うというその証拠としてこう語った。ウルデールがかつてクーラウのところに、初心者の作品に目を通してもらおうとして持ってきた。その作品はひどいものだった。クーラウがそれに目を通し終えたとき、クーラウはウルデールに一言も言わずにそれを渡した。
 人と争うことが嫌いな他の例として(これもA.ロンの話から)、ある時、彼はパーティーの席にいて、その中にワイセも居た。ワイセはクーラウの作品の一つを取り上げそれをピアノで弾いて面白がった。それに対してクーラウは何も言わずに、彼の帽子を取るとその場から去った。
 『ルル』の中のシディの役には最初はニールセン夫人が決まっていた。しかし、その後それがスルサに与えられた時、クーラウはスルサに喉をころがす部分を作ってやるためいくつか変更をした。初演の時、ヴェラの役はイダ・ホルシュタインが演じた(A.ロンによる)。
 クーラウはクンツェンに腹を立てていた。何故なら、クンツェンは『盗賊の城』をけなすような発言をし、今時の若い作曲家達は書く能力がないにもかかわらず、すぐ大曲を書きたがり、ケルビーニの作品を一つか二つさがしてはそれを真似して書くが、ケルビーニが書いたようにはならないと話した。この仕返しをするために、クーラウはカノンを作曲した。その中でケルビーニをけなしクンツェンの音楽を「水のように透明だ」と言って褒めている。これは逆説で本当はアイロニーである。同じく「鼻の中の鼻よ」のカノンもクンツェンを当てこすったものである(A.ロン)。
A.ロンはクーラウがスウェーデンに永い間滞在したと言っている。そしてその間に、例えば彼の弟子であったイエーテボリの卸商人マグヌセンの娘を教えたとも言っている。
ヴィーエ夫人(俳優達の母親的存在)は次のように話した。クーラウは彼女の家にしばしばやって来た。彼女の夫はフルートを吹いていた。そしてクーラウのフルート作品の多くがそこで試奏された。クーラウ自身は決してフルートを吹かなかった。
クーラウの演奏が表情の乏しいものであったとは決して考えられない。何故なら彼の弟子の一人、ゲーアソンは異常なほど感情を込めて演奏するのだから。しかしエネルギッシュな演奏という点が多少欠けていたとは考えられる。それは恐らく時代的なものであったのであろう。エネルギッシュな演奏はリストによって初めてもたらされたものである。
                E.Erslev 1873年4月20日
訳注:
*Winther, Christian (1796-1876) 詩人
**Erslev, Emil (1817-1882) 音楽著述者
***Ermelundshusetコペンハーゲン近郊「鹿公園」の近くにある場所
**** Nielsen, Nicolai Peter (1795-1860) 俳優
***** Schwencke, Christian Friedrich Gottlieb (1767-1822) 作曲家、ハンブルク市音楽監督、ハンブルク時代のクーラウの作曲の先生
****** Hornemann, Christian (1765-1870) 画家
******* Overskou, Thomas (1798-1873) 劇場史著述家

 

ハスハーゲンはローセに勤めている人ではなかった。彼は楽器製作者であった。クーラウは彼をドイツ時代から知っていたようではないようだ。
                E.Erslev 1873年4月20日

『ルル』を作曲した当時、クーラウはドロニンゲンス・トォヴェアゲーゼ(Dronningens tværgade)に住んでいた。
                E.Erslev 1873年4月20日